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=== 第二次軍政 ===
[[1983年]]の次回選挙で[[オバフェミ・アウォロウォ]]が勝ったにもかかわらず、[[ムハンマド・ブハリ]][[将軍]]ら[[軍政]]派によるクーデターで再び軍政に戻る。彼は経済再生を約束したが、強圧的な体制を敷いたため、経済はかえって経済は悪化した。[[1985年]]再度クーデターが起き[[イブラヒム・ババンギダ]]将軍が実権を掌握。彼は最初[[人権]]を重視すると約束したが次第に圧制に移行した。また[[為替]]自由化などの経済改革はナイジェリアの通貨暴落を招き、何度もクーデター未遂を引き起こした。
 
=== 第三共和政 ===
[[1990年]]の新憲法で1992年の大統領選挙が約束され、疑問視されつつも実現したが、ババンギダは不正があったと主張しやり直させた。[[1993年]]6月の再選挙で[[実業家]]{{仮リンク|モシュード・アビオラ|en|Moshood Kashimawo Olawale Abiola}}が勝利しまたもババンギダはまたも不正を主張したが、8月引退し一旦文民出身の[[側近]]{{仮リンク|アーネスト・ショネカン|en|Ernest Shonekan}}にいったん政権を任せた。
 
=== 第三次軍政 ===
その3か月後の[[1993年]]11月、1980年代の2回のクーデターにもかかわったとみられる[[サニ・アバチャ]]将軍が実権を掌握した。サニ・アバチャは1998年の民政移管を約束したが、その一方で[[政党]]や[[集会]][[出版]]を弾圧し、多くの政治家や民主運動家や[[政敵]]を[[牢獄]]に送り、ナイジェリアに圧政を敷き新憲法制定を延ばし続けた。彼はアフリカ随一の地域大国らしく振舞うべく、[[リベリア]]の長い[[内戦]]を終わらせ民政移管するプロセスに参加し、軍によるクーデターが起こった際はただちにリベリアに軍を派遣し文民政権を守った。これによってアバチャにナイジェリアの民政移管を期待したものもいたが、[[1998年]]やっと約束どおり[[告示]]された大統領選挙では候補者はアバチャ一人だけであった。しかし選挙直前の[[6月8日]]にアバチャが[[心臓麻痺]]で死去し、[[7月7日]]に{{仮リンク|モシュード・アビオラ|en|Moshood Kashimawo Olawale Abiola}}が死去した。後を継いだ[[アブドゥルサラミ・アブバカール]]の政権のもと、[[1999年]]に新憲法が制定され、民政へ移行した
 
=== 第四共和政 ===
かつてのクーデター軍人[[オルシェグン・オバサンジョ]]が、初の民主的選挙で、大統領に当選した。[[2003年]]の選挙でも再選した。しかし彼は民主派の希望でもあった司法長官{{仮リンク|ボラ・イゲ|en|Bola Ige}}が[[2001年]]に暗殺された件にかかわったといわれるほか、ナイジェリアの[[汚職]]と[[腐敗]]が彼の時代になって最悪になったといわれ、国民の感情は好悪半ばしている。オバサンジョは腐敗政治家を次々逮捕しているが依然政府の腐敗は深刻で、多くの[[頭脳流出]]を招いている。
 
[[2006年]]、オバサンジョ大統領の3選を可能にする憲法改正が否決され、[[2007年]]2月、アブバカル副大統領が大統領選挙の候補者名から除外され、4月、アブバカルの立候補を最高裁が容認した。2007年4月23日、選挙管理委員会は大統領選挙で、国民民主党の[[ウマル・ヤラドゥア]]が当選したと発表したが、国際選挙監視団は不正投票があったとして有効性を疑問視した。2007年8月14日、{{仮リンク|ナイジェリア中央銀行|en|Central Bank of Nigeria}}は2008年の8月から100ナイラを1ナイラとする[[デノミネーション]]を実施することを発表した。[[2009年]][[7月26日]]、[[ボコ・ハラム]]の{{仮リンク|ボコ・ハラム蜂起|en|2009 Boko Haram Uprising}}が勃発([[:en:Timeline of Boko Haram attacks in Nigeria]])。[[2010年]]5月5日、ヤラドゥアが病死し、副大統領の[[グッドラック・ジョナサン]]が大統領に就任した。
 
グッドラック・ジョナサンの就任期間は、ヤラドゥアの任期の残り1年を受けてのものであったため、2011年再び大統領選挙が実施。グッドラック・ジョナサンは、イスラム教徒が多い北部出身のムハンマド・ブハリ元最高軍事評議会議長を下して再選を果たした。しかし、この選挙結果を受けてカドゥナ州など北部地域で暴動やキリスト教施設等への襲撃が発生。多数の死者や避難民が生じた<ref>[http://www.afpbb.com/article/war-unrest/2796944/7119678 ナイジェリア大統領選めぐる暴動、死者500人超か(AFP.BB.NEWS)2011年04月25日13:53]</ref>。
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[[議会]]は、[[二院制]]。上院は、全109議席。各州3議席、連邦首都地域から1議席。代表議院(下院)は、346議席。任期はいずれも4年で、両院同日選挙。
 
ナイジェリアの政治は独立以来混乱が続いているといっていい。独立時の北部・東部・西部の3州制以来、政治の実権は人口の多い北部の[[イスラム教徒]]が握っている。票数を是正するための人口調査は[[1962年]]に行われたものの、各民族の対立により失敗に終わり、以後人口調査は行われていない。この人口調査の失敗は各民族の対立をより先鋭化させ、[[ビアフラ戦争]]へとつながっていった<ref>「新書アフリカ史」第8版(宮本正興・松田素二編)、2003年2月20日(講談社現代新書)p501</ref>。3州の政治対立を緩和するため、政府は州を細分化していき、州の数は1967年には12州、1976年には19州、1996年には36州となっていた。この州の細分化により旧各州の中心であった[[ハウサ人]]・[[ヨルバ人]]・[[イボ人]]の3民族の求心力は衰え、新設された州で最大規模となった中小規模の民族の発言権が増大した。いっぽうで各民族ごとに投票行動を行う傾向は変わらず、いまだに正確な人口調査を行うことができない状況である<ref>「アフリカ 苦悩する大陸」ロバート・ゲスト著 伊藤真訳 2008年5月15日 東洋経済新報社 p136</ref>。
 
[[1967年]]に起こった[[クーデター]]で[[ヤクブ・ゴウォン]]が政権を握って以降、軍の政治的発言権は増大した。ナイジェリアでは軍事政権が民主化の意向を示さないことは少なく、政権を奪取すると数年後の民政移管を公約するのが常であったが、この公約が守られることは少なく、[[イブラヒム・ババンギダ]]時代には大統領選の再選挙や無効、[[サニ・アバチャ]]時代には対立候補のいない大統領選などが行われ、軍は長期にわたってナイジェリア政治を支配してきた。
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主に北部では[[イスラーム教]]が、南部では[[キリスト教]]が信仰され、その他土着の[[アニミズム]]宗教も勢力を保っており、内訳はイスラーム教が5割、キリスト教が4割、土地固有の伝統信仰が1割となっている<ref>[http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/nigeria/data.html 外務省]</ref>。北部は[[ムスリム]]地区である。[[スンナ派]]ムスリムが主流で、[[シーア派]]ムスリムはほとんど居なかったが、[[イラン]]がナイジェリアで支持団体を通じてシーア派と[[イスラーム革命]]思想の布教を行い、現在は200万人のシーア派ムスリムが存在する<ref>[[NHK衛星第1テレビジョン|NHK-BS1]]「[[きょうの世界]]」[[2月10日]]放送回より</ref>。
 
独立後、キリスト教とイスラーム教が対立する宗教間紛争が多く起こった。1982年にはカノで[[モスク]]の近くに[[大聖堂]]を建てる計画に反対して暴動が、1986年にはババンギダ軍事政権が[[イスラム諸国会議機構]]の正式メンバーになることを秘密に決定していたことが発覚し教会やモスクの破壊が続いた。さらに、1987年のカドナ州の暴動では19人の死者、数千人の負傷者がた。また1990年にはクーデター未遂が起こり、1991年にはカツィーナ、バウチで暴動、1992年カドナ州ザンゴン・カタフで暴動が起こった。2002年は25%以上がキリスト教であるカドナ州で[[シャリーア]]を導入するか否かで抗争が起きた<ref>戸田真紀子『アフリカと政治』、第5章「ナイジェリアの宗教紛争」</ref>。
 
2010年3月には[[ベロム]]でイスラーム教徒がキリスト教徒を襲撃する事件が発生し、500人以上が殺害された。2010年7月にかけての数ヶ月間に同様の事件が複数起きており、地元の人権団体によると[[ジョス (ナイジェリア)|ジョス]]周辺だけで1500人が殺害されているとされる。[[教会]]の建物もその際に破壊されるケースがある<ref>[http://www.afpbb.com/article/war-unrest/2741480/5980483 イスラム教徒らがキリスト教徒の村を襲撃、8人死亡 ナイジェリア] 2010年07月18日 10:44 [[AFPBB]]</ref>。