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ガリシアの名は[[古代ローマ]]の属州[[ガラエキア]](現在のスペイン西部とポルトガル北部)から来ている<ref>桑原真夫「ガリシアという異郷」/ 坂東省次・桑原真夫・湯浅武和編著『スペインのガリシアを知るための50章』明石書店 2012年 19ページ</ref>。そのガラエキアの起源はギリシア語の「カライコイ」(Kallaikói、καλλαικoι、[[ヘロドトス]]が記述を残す)から来ており、古代に[[ドウロ川]](カスティーリャ語でドゥエロ川)以北に住んでいた[[ケルト人|ケルト]]系の民族を指していた。この地域で話されている[[ガリシア語]]は俗ラテン語(口語ラテン語)を起源とする[[ロマンス諸語]]の一つであり、この地でのケルト語はすでに滅んでいる。キリスト教は、ローマ時代末期に様々なルートを辿ってガリシアへ伝来した。
 
[[5世紀]]から[[6世紀]]にかけては、[[スエビ族|スエビ王国]]([[ガリシア王国]])の中心地であったが、584年に[[西ゴート王国|西ゴート王]][[レオヴィギルド]]に征服された。この時代に、ガリシア北部ブリトニア([[:es:Britonia]])に[[ブリトン人]]移民による司教座ができた。このブリトン人たちは、[[アングロ=サクソン人]]の[[グレートブリテン島]]侵攻から逃れてやってきた人々である。[[8世紀]]にイスラム教徒に征服されたものの、実効支配は及ばないまま[[739年]]に[[アストゥリアス王国]]([[レオン王国]])の[[アルフォンソ1世 (アストゥリアス王)|アルフォンソ1世]]に奪い返された。以降[[レオン王国]]の一部となり、[[カスティーリャ王国]]に受け継がれた。[[1065年]]、[[フェルナンド1世 (カスティーリャ王)|フェルナンド1世]]の死後に領土が分割され、ガリシアは一時的に別の王国となったが、すぐに[[アルフォンソ6世 (カスティーリャ王)|アルフォンソ6世]]に統合された。
 
9世紀から、[[サンティアゴ・デ・コンポステーラ]]で[[ヤコブ (ゼベダイの子)|サンティアゴ]]の聖遺物が発見されサンティアゴ信仰が盛んになり、レコンキスタ運動の中でのキリスト教徒の象徴となった。中世以後、サンティアゴ・デ・コンポステーラへは[[サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路|巡礼路]]を巡ってヨーロッパ中からキリスト教徒が巡礼するようになった。人々の往来は、この地方への[[ロマネスク美術]]の伝播、吟遊詩人の詩や音楽が伝えられるなど、文化的な交流をもたらした。9世紀から10世紀にかけて、沿岸部を[[ヴァイキング]]や[[ノルマン人]]が荒らしまわり、現在も[[カトイラ]](ポンテベドラ県)には防衛用の塔が残る。