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== 生涯 ==
[[文化 (元号)|文化]]12年([[1815年]])生まれ。六男であるために家督を継ぐことはできず、長州藩士[[佐世親長]]の養子となる。[[嘉永]]4年([[1851年]])家老に昇進するが、家老にしては家柄が低すぎることから([[佐世氏|佐世家]]は佐々木源氏系の家柄であるが、藩内での地位は低かった。翻って福原氏の祖は[[毛利氏]]と同じ[[大江氏|大江]][[朝臣]][[長井氏]]であり、[[安芸福原氏|福原氏]]は宿老の家柄である)、[[安政]]5年([[1858年]])に藩命で長州藩で代々家老職を継ぐ家柄[[福原親俊]](伯父・[[福原房純]]の孫)の家督を継承した。
 
その後は国家老として藩主・[[毛利敬親]]を補佐し、[[尊王攘夷]]運動を推進する。しかし[[文久]]3年([[1863年]])、[[八月十八日の政変]]で長州藩が[[京都]]から追放されると、[[来島又兵衛]]や[[久坂玄瑞]]らと協力して挙兵し、上京して[[禁門の変]]を引き起こした。元僴は蛤御門で[[大垣藩]]の藩兵と戦ったが、敗れて負傷し、帰国した。
 
その後、幕府による[[長州征討|第1次長州征伐]]が起こると、藩内では保守派である[[俗論党]]が主導権を掌握してしまう。元僴は禁門の変で敗れて逃げ戻ったという経緯があったため、保守派の意向に逆らうことができず、[[西郷隆盛]]の要求により[[国司親相]]・[[益田兼施]]と共に禁門の変、並びに長州征伐の責任を取る形で、元治元年(1864年)岩国の龍護寺で自害した。[[享年]]50。
 
寡黙で果断、温厚でもあり、幕末初期の長州藩政を見事に運営した名臣として、高く評価されている。