「伊東甲子太郎」の版間の差分

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== 生涯 ==
=== 出自 ===
[[常陸国|常陸]][[志筑藩]]士(郷目付)・鈴木専右衛門忠明の長男として生まれる。忠明が家老との諍いによって隠居した後、伊東が家督を相続したものの、後に忠明の借財が明らかになったことから家名断絶となり、一家は領外へ追放される。伊東は[[水戸市|水戸]]へ遊学し、[[水戸藩]]士・[[金子健四郎]]に剣術([[神道無念流剣術]])を学び、また、[[水戸学]]を学んで[[勤王]]思想に傾倒する。追放後の忠明は高浜村東大橋([[石岡市]])にて村塾(俊塾)を主宰し、帰郷した伊東も教授に当たった。のち江戸[[佐賀 (江東区)|深川佐賀町]]の[[北辰一刀流剣術]]伊東道場に入門するが、道場主の伊東精一に力量を認められて婿養子となり、'''伊東大蔵'''と称した。
 
=== 新選組 ===
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== 備考 ==
* 深川佐賀町の伊東道場は盛んで塾生や門下生も多く、小[[旗本]]程度の規模を誇ったとされる。
* 慶応3年(1867年)に4通の建白書を朝廷に提出している。[[大政奉還]]の行われた直後の3通目の建白書では、[[公家]]中心の新政府を作り、一和同心をスローガンに広く天下から人材を求め、畿内5ヶ国を新政府の直轄領とする、国民皆兵などを提唱している。また、1通目の建白書では[[神戸港|神戸]]開港反対を唱えていたが、3通目では「大開国、大強国」を唱え、積極的開国による富国強兵策に近い考え方を示している(ただし、神戸開港は孝明天皇の遺志に反するとしてあくまでも反対している。また、暗殺時の懐に5通目の草稿があり、同時代の記録によるとほとんど3通目の写しに近く、この案で近藤を説得しようとしていたと言われている。当時の一級資料「鳥取藩丁卯筆記」では、薩摩の[[吉井友実|吉井幸輔]]が越前の[[中根雪江]]に、この建白を「いちいち尤も」と言っていたと記されている)。この建白書を、[[松浦玲]]は「徳川家をも政権に参加させるという内容は[[坂本龍馬]]に近い穏健な思想で、公家をトップにすること、畿内5ヶ国を直轄領にすることなどは非常にユニークな意見である」と評している。また、市居浩一は「巷説、伊東が薩摩に通謀したと言われているのが全く誤りであることは、伊東と薩摩が連絡を取った証拠が皆無に等しいこと、この建白書の内容が薩摩の武力倒幕派と全く違う意見であることからも歴然としている」と指摘している。
* 伊東は新選組離脱後、同志に英語を学ばせている。
* 明治後、伊東暗殺の嫌疑により[[相馬主計]]が[[新島]]に流されている。