「エリック・ホッファー」の版間の差分

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==来歴==
ドイツ系移民の子として[[ニューヨーク]]の[[ブロンクス]]に生まれる。7歳にして母親と死別し、同年[[視力]]を失う。その後、15歳で奇跡的に視力を回復する。以来、再びの[[失明]]の恐怖から、貪るように読書に励んだという。しかし正規の学校教育は一切受けていない。18歳の頃、唯一の肉親である父親が逝去し、天涯孤独の身となった。それを機に[[ロサンジェルス]]の貧民窟でその日暮しの生活を始める。
 
28歳の、多量の[[シュウ酸]]を飲み[[自殺]]を試みるが失敗未遂に終わる。それをきっかけにロサンジェルスを去り、[[カリフォルニア州|カリフォルニア]]で季節労働者として農園を渡り歩いた。労働の合間に[[図書館]]へ通い、[[大学]]レベルの[[物理学]][[数学]]をマスターする。農園の生活を通して興味は[[植物学]]へと向き、農園をやめてまで植物学の勉強に没頭し、またも独学でマスターすることになる。
 
ある日、勤務先の[[レストラン]][[フォルニア大学バークレー校]]の柑橘類研究所所長のスティルトン教授と出会い、給仕の合間に彼が頭を悩ませていた[[ドイツ語]]で書かれた植物学の文献を翻訳した。彼はホッファーが植物学にもドイツ語にも精通していることを知り、研究員として勤務することを持ちかけた。しばらく研究員として働いたホッファーは、当時カリフォルニア州で流行っていた[[レモン]]の白化現象の原因を突き止めた功績が認められ、正式な研究員のポストが与えられるが、それを断り気ままな放浪生活へと舞い戻る。
 
[[哲学者]]、著述家としての転機は[[1936年]]、ホッファーが34歳の時であった。ヒトラーの台頭、そしてその冬、[[砂金]]堀りの仕事でひと冬を雪山で過ごすことになり、その暇つぶしとして道中の古本屋で購入した[[モンテーニュ]]の『[[エセー]]』との出会いによって思索、とりわけ「書く」という行為を意識し始めたという。エセーはその冬で三度読み返し、最後には大部分を暗記してしまったという。
 
[[1941年]]からより、[[サンフランシスコ]]で[[沖仲仕]]として働いたことから、「沖仲仕の哲学者」とも呼ばれる。[[1964年]]より、[[カリフォルニア大学バークレー校]]の[[政治学]]研究教授になったが、65歳になるまで沖仲仕の仕事はやめなかった。ホッファーによると、沖仲仕ほど自由と運動と閑暇と収入が適度に調和した仕事はなかったという。バークレーでは週に一度のオフィスアワーを持ち、[[1972年]]まで続けた。[[1967年]]にCBCで放送された対談番組は全米各地で大きな反響を呼んだ。[[再放送]]も人気だったことから、以来年に一度出演した。[[1970年代]]、ベトナム兵役拒否や[[ヒッピー]]、[[マリファナ]]と[[学生運動]]の時代に、ある種の知的カリスマとして高い知名度をもっていたが、ホッファー自身は彼らを甘やかされた子供と捉えていた。
 
[[1983年]][[2月]]、当時の大統領[[ロナルド・レーガン]]は[[大統領自由勲章]]を送った。同年5月、老衰のため、80歳でその生涯を終えた。
 
==著作==