削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
Mbdnoob (会話 | 投稿記録)
8行目:
諸葛恪が誅殺されると蕪湖に移り、政変に乗じて[[建業]]へ進出しようとしたが、配下の謝慈らに諫められたためにこれらを殺害、庶民に落とされた。[[258年]]、孫亮による恩赦を受け、章安侯に封じられた。
 
[[270年]]、[[孫皓]]は左夫人である王氏を亡くし、哀しみのあまりしばらく表に姿を見せなかったため、死亡説が流れた。まもなく孫奮と[[孫奉]]のどちらかが、数ヶ月後に皇帝に即位するのではないかという噂が流れ、豫章太守の[[張俊 (武将)|張俊]]のように、この噂を真に受けるものも出現した。孫皓はこれを怒り、孫奮と五人の子を殺害した(『江表伝』によると、章安から呉に連行された上での賜死、服毒自殺)。また、豫章で孫奮の母であった仲姫の墓を掃除した張俊は、車裂きの刑となった。
 
[[陳寿]]は孫奮の没落を自業自得としつつも、最後に誅殺され一族皆殺しとなったのは、とばっちりの災難であると同情している。