「オジー・スミス」の版間の差分

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転機となったのは[[1982年]]、セントルイス・カージナルスに移籍したことであった。当時カージナルスを率いていた[[ホワイティ・ハーゾグ]]監督が、スミスの守備力に目をつけ、当時本拠地にしていた[[ブッシュ・メモリアル・スタジアム]]ではプラスになるとの判断あってのものだった。ハーゾグ監督との出会いにより、移籍1年目にして内野守備の中心となり、同年、[[1982年のワールドシリーズ|ワールドシリーズ]]第2戦(対[[ミルウォーキー・ブルワーズ]])では、二塁走者として、[[トム・ハー]]の犠牲フライで三塁走者に続いて二塁からホームイン。ハーは[[ワールドシリーズ]]史上唯一([[2008年]]終了時点)の「二点犠飛」を記録した。カージナルスを15年ぶり9回目のワールドチャンピオンに導く原動力となった。
 
守備に磨きをかける一方、打撃にも力を入れるようになり、打率も2割台から徐々に上がっていった。[[1985年]]のロサンゼルス・ドジャースとの[[リーグチャンピオンシップシリーズ]]第5戦では[[スイッチヒッター]]のスミスが左打席では唯一となるホームランを放ち、チームをサヨナラ勝利に導いた。そして[[1987年]]には自身最高の打率となる.303を記録し、「守備だけの選手」という評価を完全に覆した。同年、肩の故障で守備力が低下すると懸念されたが、猛練習の末にクイックスローを会得して、それをカバーした。
 
守備はもはや神業と言われる程であり、ショート最深部、というよりほぼレフト前くらいのゴロをノーバウンドのジャンピングスローでアウトにしたり、ダイビングしながらイレギュラーバウンドを素手で処理したりと、常識では考えられないものだった。「(一試合の中で)スミスがそのバットで1点をたたき出すことはまれだ。'''しかし彼はそのグラブで、確実に2点は防いでくれる'''」と讃えられている。