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[[File:Aurangzeb2.jpg|thumb|right|220px|アウラングゼーブ]]
[[File:Shivaji british meusium.jpg|thumb|right|220px|シヴァージー]]
アウラングゼーブは治世の前半、歴代皇帝が行なってきた[[スーフィズム]][[チシュティー教団]]による穏健な宗教政策を改め、宗教政策は[[スンナ派]]の教義をもととした[[シャリーア]]に基づく保守反動的なもの宗教政策となり、ヒンドゥー寺院を破壊するなど、他宗教に厳しい弾圧を行った。そのため、[[シーア派]]、[[ヒンドゥー教徒]]、[[ラージプート]]、[[マラーター同盟|マラーター族]]、[[シク教徒]]などの反感を買った。
 
[[1660年]]代から抵抗を始めたマラーターの[[シヴァージー]]の抵抗には、アウラングゼーブは何度も苦慮させられる羽目となり、[[1674年]]にはシヴァージーがヒンドゥー教徒の[[マラーター同盟|マラーター王国]]を建国するなど、帝国はしだいに分裂の方向に向かっていった。
===デカン遠征===
[[ファイル:Mughals.JPG|300px|right|thumb|ムガル帝国の最大版図(1707年アウラングゼーブ死亡時)]]
1680年にシヴァージーが死に、ラージプートの反乱も制圧すると、1681年からアウラングゼーブはデカンの[[アウランガーバード]]や近郊の城郭都市[[{{仮リンク|アフマドナガル]]|en|Ahmednagar}}(旧[[{{仮リンク|アフマドナガル王国]]|en|Ahmadnagar Sultanate}}の都)を拠点に、デカンに大規模な外征を行った(これ以降彼はデカンと南インドで行動し、デリーに戻らなかった)。こうして、[[1686年]]に[[ビージャプル王国]]、[[1687年]]に[[ゴールコンダ王国]]を滅ぼし、[[1689年]]には[[マラーター同盟|マラーター王[[国]]の{{仮リンク|サンバージー]]|en|Sambhaji}}を殺害し、マラーターを南に追いやり、帝国最大の領土を獲得した。
 
ここで注目すべきなのは、このデカン遠征で戦った帝国軍の兵士や軍司令官さえもが、帝国の民族構成上ほとんどヒンドゥー教徒だったことである。ヒンドゥー教徒を弾圧していたアウラングゼーブは、実は多数派のヒンドゥー教徒の助力なしには領土を拡大することはできなかったのだ。なんとも矛盾した話である。
 
==死後のムガル帝国==
[[File:Peshwa Baji Rao I riding horse.jpg|thumb|right|230px|{{仮リンク|バージー・ラーオ1世|en|Baji Rao I}}]]
アウラングゼーブの死後、彼の予想通りに息子たちが帝位をめぐって争いはじめ、彼自身の統治、多数の民族・宗教を抱えた政情や帝国の財政難も影響して、帝国領はたちまち分裂、衰退していった。
 
のちに混乱に乗じて帝国を見切ったデカン、アワド、ベンガルといった近隣地域が独立、[[マラーター同盟]]が強勢となり、[[1737年]]にはその宰相[[{{仮リンク|バージー・ラーオ1世]]|en|Baji Rao I}}率いる軍勢によってデリーが一時包囲された。アウラングゼーブの没後ちょうど30年目に起きたこのことは、[[マラーター同盟]]の台頭とムガール帝国の衰退をよくあらわしていた。
 
さらには、[[イラン]]の[[アフシャール朝]]がデリーを略奪、破壊、[[アフガニスタン]]の[[ドゥッラーニー朝]]も帝国領にたびたび侵入し、インドの植民地化を目指す[[イギリス]]などの外国勢力も介入してくるなど、帝国は急激に崩壊していった。
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