「ヘラルト・テル・ボルフ」の版間の差分

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[[ズウォレ]](現在の[[オーファーアイセル州]]の町)で生まれた。彼は芸術家であった父親から良い教育を受け、非常に幼い頃から才能の片鱗を見せた。学問上の献呈の辞で証明されるように、テル・ボルフは1632年に[[アムステルダム]]で、デュイステルかコデのもとで学んでいた。デュイステルの影響が、1638年頃に描かれた絵の中にみられる。1634年、彼は[[ハールレム]]でピーテル・モリンの元で学んだ。このハールレム時代に描かれた作品は、[[ベルリン・ギャラリー]]にある『相談』(1635年)である。
 
1635年、テル・ボルフは[[ロンドン]]におり、その後[[ドイツ]]、[[フランス]]、[[スペイン]]、[[イタリア]]を旅した。1641年に彼が[[ローマ]]にいたのは確かであり、銅版に『ヤン・シクスの小さな肖像』と『ある若い女性』を描いた。1648年、スペイン=オランダ間の和平条約批准する会議の場にいる間、彼は[[ミュンスター]]にいた。彼は集合した全権大使らの小さな肖像画を銅版に作成し、平行して『ギターの練習』と『立つ男』の肖像を描いた(現在ロンドンのナショナルコレクションで展示)。絵画は[[:en:Demidov collection|デミドフ家]]の手で1280ポンドで売られ、ハートフォード侯が買い上げた。現在これらは絵画収集家[[リチャード・ウォレス]]によって[[ナショナル・ギャラリー (ロンドン)|ナショナル・ギャラリー]]に寄贈された(秘書を務めていたジョン・マレー・スコットの進言によるという)。
 
テル・ボルフは招聘されて[[マドリード]]を訪問、彼はスペイン王[[フェリペ4世 (スペイン王)|フェリペ4世]]に雇われ騎士に叙された。しかし、陰謀事件の結果、彼はオランダへ帰国せざるをえなかったといわれる。彼は一時ハールレムに定住したとみられる。しかし彼は最終的に[[デーフェンテル]](現在オーファーアイセル州の町)へ定住し、そこで町議会の議員となり、ハーグのギャラリーにある肖像画の中に姿を見せている。彼は1681年にデーフェンテルで死んだ。