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'''鹿内 信隆'''(しかない のぶたか、[[1911年]]([[明治]]44年)[[11月17日]] - [[1990年]]([[平成]]2年)[[10月28日]])は、[[日本]]の[[実業家]]である初めは[[ニッポン放送]]設立に加わり、後に[[フジサンケイグループ]]会議[[議長を務めた]]
 
==経歴==
===出生から学生時代まで===
[[北海道]][[夕張郡]]の、当時は人口6,000人程度の村だった[[由仁町]]に<ref>[[中川一徳]]著『メディアの支配者(上)』234頁</ref>、父・鹿内徹、母・モヨの長男として生まれた<ref>[[佐野眞一]]によれば「鹿内信隆に関する評伝は十指にあまるが、その出生地は自伝も含め、[[北海道]][[夕張郡]][[由仁町]]とされている。しかし鹿内家のそもそものルーツは[[留萌郡]][[留萌町]]で、鹿内信隆は父・徹、母・モヨとの間の長男として明治四十四年十一月、この地に生まれた。」という([[佐野眞一]]著『あぶく銭師たちよ!―昭和虚人伝』230頁)</ref>。母・モヨは写真館を経営していた<ref name="kusap84">[[草柳大蔵]]『実力者の条件』p.84(文藝春秋社、1970年)</ref>。父・徹は撮影技師だったが[[由仁町]]に来てからは[[歯科医]]になった<ref name="kusap84"/>。
 
[[1924年]]、[[北海道岩見沢東高等学校|岩見沢中学]]に進むと[[弁論部]]に入って主将を務めたが、鹿内は、「小生意気な子供であった」という<ref>中川一徳著『メディアの支配者(上)』235頁</ref>。通学用の[[革靴]]が買えなくて、母親の婦人靴をぱかぱかいわせながら穿いていた<ref name="kusap87">[[草柳大蔵]]『実力者の条件』p.87(文藝春秋社、1970年)</ref>。母親も事あるごとに借金しようとしたが、由仁町の平均的生活感情からは、「変った一家」とみられたため、誰も金を貸すものはいなかった<ref name="kusap87"/>。
 
[[1929年]]に単身上京し、[[早稲田第一高等学院]]に入学した。同校では[[演劇]]に熱中、[[左翼]]的空気の中で[[脚本]]や演出を学んだ。この頃の仲間には、後に社会派の映画監督となる[[山本薩夫]]らがいた。3年後に[[早稲田大学]]政経学部に進学した鹿内は[[財政学]]を専攻し、研究サークル「政経攻究会」に所属した。このころの鹿内のあだ名は、“図書館ゴロ”であったという<ref>[[中川一徳]]著『メディアの支配者(上)』235-236頁</ref>。
 
===倉敷絹織へ===
大学を卒業した[[1936年]]には、当時早稲田大学教授で[[東京日日新聞]]の副主筆も務めていた[[阿部賢一]]の斡旋で[[クラレ|倉敷絹織]](現在の[[クラレ]])に入社した。鹿内は、同社専務で事実上の社長を務めていた[[菊池寅七]]に預けられたが、菊池は後に信隆の[[岳父]]となった。鹿内は[[四国]]の[[工場]]に配属され、[[1938年]]になると、特殊金属を扱う企業として新たに倉敷絹織が設立した三徳工業に転籍した。
 
===軍隊時代===
1938年応召し、予備役召集第1回の[[士官候補生]]となり牛込区若松町に置かれていた[[大日本帝国陸軍|陸軍]]経理部に進み、のち主計少尉。軍務時代[[慰安所]]設置などに尽力(本人著「いま明かす戦後秘史」に詳しい)。また、[[日清紡ホールディングス|日清紡]]の営業部長で軍と折衝していた[[桜田武]]や[[日本製紙|大日本再生紙]]社長の[[水野成夫]]らと、需給計画を通じて知り合う事になる。
1938年応召し、予備役召集第1回の[[士官候補生]]となり牛込区若松町に置かれていた[[大日本帝国陸軍|陸軍]]経理部に進み、のち主計少尉。軍務時代[[慰安所]]設置などに尽力(本人著「いま明かす戦後秘史」に詳しい)。また、[[日清紡ホールディングス|日清紡]]の営業部長で軍と折衝していた[[桜田武]]や[[日本製紙|大日本再生紙]]社長の[[水野成夫]]らと、需給計画を通じて知り合う事になる。[[岩畔豪雄]]をリーダーとする陸軍戦備課は1938年、軍用の[[製紙業|製紙会社]]・国策パルプを設立し、続いて水野と[[南喜一]]を支援して[[1940年]]大日本再生製紙を設立するが、鹿内はその担当事務官であった<ref name="人間・水野成夫">松浦行真『人間・水野成夫』[[扶桑社|サンケイ新聞社出版局]] 1973年、巻頭アルバム集6頁、300-328、384、385、水野成夫を偲ぶ1-19頁</ref><ref name="いま明かす戦後秘史上">[[桜田武]]・鹿内信隆共著 『いま明かす戦後秘史』(上巻)、[[サンケイ出版]]、1986年、71-76頁</ref><ref>[[大宅壮一]]『大宅壮一全集 第13巻』蒼洋社、1981年、123-126頁</ref>。ただ、水野は岩畔との関係から[[特務機関#対英インド独立工作における特務機関|インド独立工作]]に一生懸命で、水野に会ったのは戦後だという<ref name="人間・水野成夫"/><ref name="いま明かす戦後秘史上"/>。
 
[[岩畔豪雄]]をリーダーとする陸軍戦備課は1938年、軍用の[[製紙業|製紙会社]]・国策パルプを設立し、続いて水野と[[南喜一]]を支援して[[1940年]]大日本再生製紙を設立するが、鹿内はその担当事務官であった<ref name="人間・水野成夫">松浦行真『人間・水野成夫』[[扶桑社|サンケイ新聞社出版局]] 1973年、巻頭アルバム集6頁、300-328、384、385、水野成夫を偲ぶ1-19頁</ref><ref name="いま明かす戦後秘史上">[[桜田武]]・鹿内信隆共著 『いま明かす戦後秘史』(上巻)、[[サンケイ出版]]、1986年、71-76頁</ref><ref>[[大宅壮一]]『大宅壮一全集 第13巻』蒼洋社、1981年、123-126頁</ref>。ただ、水野は岩畔との関係から[[特務機関#対英インド独立工作における特務機関|インド独立工作]]に一生懸命で、水野に会ったのは戦後だという<ref name="人間・水野成夫"/><ref name="いま明かす戦後秘史上"/>。
 
===戦後===
除隊後の[[1943年]]、[[鮎川義介]]の日産コンツェルンが資金的にバックアップしていた日本電子工業の創立、戦後の[[経済同友会]]創設に参画。戦時中から仕事の付き合いがあった桜田が鹿内を非常に買い、関東経営者協会の発足で、桜田委員長=鹿内信隆副委員長という労務問題でのコンビを成立させ、これが[[1948年]]4月の[[日本経済団体連合会|日本経営者団体連盟(日経連)]]設立に至る<ref name="いま明かす戦後秘史上"/><ref name="鹿内信隆は語る">鹿内信隆『鹿内信隆は語る―理想なきものに創造性は生まれぬ』[[講談社]]、1986年、18-25頁</ref><ref name="カリスマの秘密">鹿内信隆『指導者 カリスマの秘密』講談社、1985年、256-286頁</ref><ref>[[文藝春秋]]、1969年4月号、188-201頁</ref>。桜田は日本電子工業の常務だった鹿内を引き抜いて、日経連の初代専務理事として迎えて、桜田総理事=鹿内専務理事として再びコンビを組み、戦後の約10年を[[日本共産党]]に指導されて各地で起ったラジカルな[[労働争議]]を闘った<ref name="カリスマの秘密"/><ref name="鹿内信隆は語る"/>。また桜田の師匠・[[宮島清次郎]]が若手財界人を束ねて帝大同期の[[吉田茂]]政権を支援したことから、桜田を通じて政財界人脈を拡げることになる<ref name="カリスマの秘密"/><ref>阪口昭『寡黙の巨星』[[日本経済新聞社]]、1985年、154-159頁</ref><ref name="鹿内信隆は語る"/>。戦後の混乱期に「[[財界四天王]]」らと共に「財界主流派」の中心メンバーとして、戦後の日本経済の基盤作りを行い、政財界の舞台裏を取り仕切った人物の一人である<ref>[[福本邦雄]]『表舞台 裏舞台―福本邦雄回顧録 』講談社、2007年、33、34、235頁<br />[[田原総一朗]]『戦後財界戦国史 総理を操った男たち』講談社、1986年、9-23、56-75頁</ref>。鹿内自身「私のいちばん記録に残すべき時代は日経連時代なんです」と述べている<ref name="鹿内信隆は語る"/>。
 
[[1954年]]の[[ニッポン放送]]設立に加わり、[[1957年]][[文化放送]]にいた水野と協力して[[フジテレビジョン|フジテレビ]]を開局させた。[[1961年]]、ニッポン放送社長に就任。
 
[[1963年]]、同局社長。フジテレビ社長時代の1968年、[[産業経済新聞社|産経新聞社]]社長に就任。1969年、[[箱根 彫刻の森美術館]]館長・フジサンケイグループ会議初代議長を務め、フジサンケイグループ内で絶大な権力を持った。[[1974年]]、郵政官僚出身の[[浅野賢澄]]に社長職を譲り、自らは会長に就任。また、ニッポン放送社長を同郷の後輩である[[石田達郎]]に譲った(石田の後任は鹿内の大学の後輩である[[羽佐間重彰]]で、後にフジテレビ社長も務めた)。
[[1963年]]、同局社長。鹿内の社長・会長時代に放送開始した番組としては『[[小川宏ショー]]』([[1965年]])、『[[ママとあそぼう!ピンポンパン]]』([[1966年]])、『[[銭形平次]]』(1966年)、『[[3時のあなた]]』([[1968年]])、『[[サザエさん]]』([[1969年]])、『[[ひらけ!ポンキッキ]]』([[1973年]])、『[[タイムボカン]]』([[1975年]])、『[[ズバリ!当てましょう]]』(1975年)、『[[プロ野球ニュース]]』([[1976年]])、『[[FNNニュースレポート]]』([[1977年]])、『[[オレたちひょうきん族]]』([[1981年]])、『[[なるほど!ザ・ワールド]]』(1981年)、『[[おはよう!ナイスデイ]]』([[1982年]])などが挙げられる。
 
フジテレビ社長時代の1968年、[[産業経済新聞社|産経新聞社]]社長に就任。1969年、[[箱根 彫刻の森美術館]]館長・フジサンケイグループ会議初代議長を務め、フジサンケイグループ内で絶大な権力を持った。[[1974年]]、郵政官僚出身の[[浅野賢澄]]に社長職を譲り、自らは会長に就任。また、ニッポン放送社長を同郷の後輩である[[石田達郎]]に譲った(石田の後任は鹿内の大学の後輩である[[羽佐間重彰]]で、後にフジテレビ社長も務めた)。
 
[[1982年]]、郵政官僚出身の[[浅野賢澄]]にフジテレビ会長のポストを譲る。[[1984年]]フジサンケイグループ最高顧問の座に就いた。しかし[[1988年]]、長男の[[鹿内春雄]]が逝去したことを受け、再び議長の座に再就任。1990年10月28日死去。[[享年]]78。