「水野成夫」の版間の差分

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文化的活動も支援し、1956年、文化放送の傍系事業として[[日本フィルハーモニー交響楽団]]を結成。また、[[1963年]]の[[日本近代文学館]]の創設にも尽力した<ref>[[小田光雄]]『古本探求2』(論創社)より</ref>。[[1968年]]には[[ 財団法人]][[サンケイスカラシップ]]初代[[理事長]]に就任。
 
また、将棋棋士・[[升田幸三]]の熱心なファンで、産経新聞社社長時代の[[1962年]]には、当時はすべて一局に二日から三日かけていた将棋のタイトル戦にあって、初の「一日指し切り制」となるタイトル戦『[[棋聖戦 (将棋)|棋聖戦]]』を創設した。棋聖位を7期獲得し、永世棋聖の称号を持つ[[米長邦雄]]によると、水野が棋聖戦を一日指し切り制にしたのは、体力面に問題があり、二日制のタイトル戦で思うような成績を残せなくなっていた升田に、何としてもタイトルを取らせたかったからだという。<ref>米長邦雄『将棋の天才たち』172ページ。『週刊現代』2011年8月20・27日号初出。</ref>だが、升田は棋聖戦の挑戦者には二度なったものの、結局棋聖位獲得はならなかった。
 
その一方で[[野球]]をこよなく愛し、[[1953年]]に[[日本生産性本部]]第二回欧米使節団に参加中、風邪と称して[[ナショナル・リーグ]]の観戦に出かけたり、1965年に[[日本国有鉄道]]とその関連会社から国鉄スワローズを買収して、サンケイアトムズ(現・[[東京ヤクルトスワローズ]])の経営を手がけたりした。しかし、球団買収の年から[[読売ジャイアンツ]]のV9が始まり、サンケイアトムズは長くBクラスに甘んじることになった。
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[[辻井喬]]の小説『風の生涯』(ISBN 4101025274、ISBN 4101025282)の主人公のモデルとなっている。
 
 
==家族==