「御真影」の版間の差分

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Ichiro Kikuchi (会話 | 投稿記録)
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'''御真影'''(ごしんえい)は、高貴な人の肖像画や[[写真]]を敬っていう語。[[日本]]では特に[[戦前]]における[[天皇]]と[[皇后]]の写真を指す。正式には「御写真」という{{要出典|date=2011年3月}}
 
なお、諸外国では写真さえも尊ぶこのような表現はない{{要出典|date=2011年3月}}
 
==概説==
[[宮内省]]から各学校に貸与され、[[奉安殿]]に[[教育ニ関スル勅語|教育勅語]]と一緒に保管された。四大節(元旦・[[紀元節]]・[[天皇誕生日|天長節]]・明治節)には講堂の正面に飾り、児童(生徒)・職員一同が遙拝した。下付は強制ではなく、各学校からの請願の上、その学校が「優等」とされた場合に下付されることとなっていた。
 
宮内省から「貸与」されている物だけに、慎重な取り扱いが要求され、学校が火災で焼失した時にそれを取り出せなかったということで校長が自殺した事件も起こった。安全のため生徒学校ではなく町村役場で保管しちに例もあった。又、“直視すると罰が当たって目が潰れるという理由で、生徒が見ることを禁じる場合もあった。安全のため、学校ではなく町村役場で保管した例もあった。
 
御真影にこうした役割を担わせたのは、[[森有礼]]・初代文部大臣によるところが大きいとされる。
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日本が[[第二次世界大戦]]で敗れると、[[1945年]][[9月27日]]に[[昭和天皇]]がアメリカ大使館に[[ダグラス・マッカーサー]]を訪ねた際に、アメリカ陸軍の写真班によって昭和天皇とマッカーサーが並んで撮影された。これは、[[9月29日]]の新聞各紙の朝刊の紙面を飾り(政府は即発禁にしたが、GHQが撤回させた)、昭和天皇がマッカーサーの隣に直立不動の姿勢で普通に新聞に写っていることは、国民に大きな衝撃を与えた。
 
[[戦後]]には天皇の写真や映像はテレビや新聞にもよく見かけるが、[[戦前]]は新聞に載ることは少なかった。日本では、[[1950年代]]まで古新聞が落とし紙([[トイレットペーパー]])に利用されており、天皇の写真が掲載されている古新聞が落とし紙に使われることが[[不敬]]と考えられたためだとされる。
 
第二次世界大戦の敗北に伴う御真影の回収に当たっては、新たな御真影と交換するという前提で回収された。しかし、それ以後に新たな御真影を下付された学校は、[[1952年]]の秋田県の私立敬愛学園高校(現在の[[国学館高等学校]])だけである。