「ハーデクヌーズ」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
m r2.7.3) (ロボットによる: eu:Kanuto Hardeknutからeu:Kanuto III.a Hardeknutへ変更 |
編集の要約なし |
||
16行目:
|-
|'''出身地:'''
|[[イングランド王国|イングランド]]
|-
|'''妻:'''
31行目:
|}
'''ハーデクヌーズ'''('''Hardeknud''', [[1018年]]/[[1019年]] - [[1042年]][[6月8日]])は、[[デンマーク]](在位:[[1035年]] - [[1042年]])および[[イングランド王国|イングランド]](在位:[[1035年]]
'''カヌート3世'''の名で1035年にデンマークを父から継いだが、イングランドでの地位を確保するためにそこへ渡るのを、ノルウェー王[[マグヌス1世 (ノルウェー王)|マグヌス1世]]が妨げたために争いとなった。結果、イングランドの支配の代わりにハーデクヌーズの非嫡出の腹違いの兄[[ハロルド1世 (イングランド王)|ハロルド]]を摂政とすることに合意した。
ハロルドは1037年自ら
ハーデクヌーズが[[スカンディナヴィア]]でこのような窮地に陥った後、マグヌスと[[1038年]]または[[1039年]]に、どちらか王位継承者でない方が死に、そうでない方を後継者とする<ref name="stenton">
ハーデクヌーズは厳しく、非常に不評な支配者であり、海軍への給料のために激しい増税を行い、そのために[[1041年]]には[[ウスター]]で反乱が起きた。この反乱を鎮圧するのにウスターはほぼ壊滅した。税金を下げるよう地元の伯爵を説得するために[[コヴェントリー]]の通りを馬に乗って走った[[レディ・ゴディバ]]はハーデクヌーズの治世の話であるといわれる。
ハーデクヌーズは後に懺悔王とよばれる異父兄[[エドワード懺悔王|エドワード]](母エマと[[エゼルレッド2世 (イングランド王)|エゼルレッド無思慮王]]の息子)を[[ノルマンディー]]への追放から連れ戻し、副支配者そして後継ぎにした<ref name="stenton" />(『アングロ=サクソン年代記』によれば[[1041年]])。ハーデクヌーズは生涯独身で子供はなかった。[[1042年]]6月にランベス ([[:en:Lambeth|
== 脚注 ==
{{Reflist}}
{{先代次代|[[デンマーク君主一覧|デンマーク王]]|9代<br>1035年
{{先代次代|[[イングランド君主一覧|イングランド王]]|1040年 - 1042年|[[ハロルド1世 (イングランド王)|ハロルド1世]]|[[エドワード懺悔王]]}}
{{デンマーク王}}
{{イングランド王|
{{DEFAULTSORT:はあてくぬうす}}
|