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*『吾妻鏡』に記載されている[[本庄朝次|本庄新左衛門尉朝次]]は家次の嫡子であり、複数の系図にも、家次→朝次→[[本庄有次|有次]]とある。
*一部の『武蔵七党系図』には、「家長の子(次男)、本庄'''二郎'''左衛門家次」の名で記述されており、諸々の資料の伝承には混乱が見られる。
*児玉庄氏の伝承通り、頼家が戦死していたのであれば、[[猿掛城 (備中国)|猿掛城]]の2代城主は家長の三男である家次と言う事になる。なお、『児玉記考』(明治33年発行)内の伝承によれば、「家次は父の後を継いで本庄の城主となった」とあり、栗崎館を一時的に継いだとも考えられる。
 
==備考==