「グリエルモ2世」の版間の差分

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だが、この経験がかえって彼を刺激したのか、親政を開始したグリエルモ2世は宗教に対して寛容策をとり、さらには[[東ローマ帝国]]にも侵攻して勢力を拡大し、[[アイユーブ朝]]の[[サラディン]]が[[エルサレム]]奪回に侵攻してきたときは、自身の軍勢を[[十字軍]]として派遣しているなど、治世の多くに成功を収めている。また、グリエルモ2世は数か国語に通じた教養豊かな名君で、[[ノルマン人|ノルマン]]や東ローマ帝国の文化を融合した[[モンレアーレ大聖堂]]を建設するなど、文化面においても大きな成功を収めた。
 
しかしグリエルモ2世は[[イングランド王国|イングランド]]王[[リチャード1世 (イングランド王)|リチャード1世]]の妹[[ジョーン・オブ・イングランド (シチリア王妃)|ジョーン]]を妻として迎えたにもかかわらず、男児ができずして1189年に病死した。王位継承者は叔母の[[コスタンツァ (シチリア女王)|コスタンツァ]]になっていたが、夫の[[ハインリヒ6世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ6世]]の支配を嫌ったシチリア国民は従兄の[[タンクレーディ (シチリア王)|タンクレーディ]]を擁立した。
 
{{先代次代|[[ナポリとシチリアの君主一覧|シチリア王]]|1166年 - 1189年|[[グリエルモ1世]]|[[タンクレーディ (シチリア王)|タンクレーディ]]}}
 
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[[Category:シチリアの君主]]
[[Category:ターラント公]]
[[Category:アルタヴィッラ家]]