「マルティン1世 (アラゴン王)」の版間の差分

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[[file:Rotlle-genealogic-poblet-marti-I-darago.jpg|right|thumb|200px|[[ポブレー修道院]]にあるマルティン1世像]]
'''マルティン1世'''([[スペイン語|西]]:Martin I, [[1356年]] - [[1410年]][[5月31日]])は、[[アラゴン王国|アラゴン]][[アラゴン君主一覧|]]、[[バレンシア王国|バレンシア]]王、および[[バルセロナ伯]](在位:[[1396年]] - 1410年)。[[カタルーニャ語]]名では'''マルティー1世'''(Martí I)。また、晩年に[[シチリア王国|シチリア]][[ナポリとシチリアの君主一覧|王位]]にもついた('''マルティーノ2世'''([[イタリア語|伊]]:Martino II)、在位:[[1409年]] - 1410年)。アラゴン王[[ペドロ4世 (アラゴン王)|ペドロ4世]]と3人目の王妃[[レオノール・デ・シシリア]](シチリア王[[ピエトロ2世 (シチリア王)|ピエトロ2世]]の娘)の次男。同名の息子に対して'''老マルティン'''([[スペイン語|西]]:Martín el Viejo, [[イタリア語|伊]]:Martino il Vecchio)と呼ばれる。また[[人文主義者|ユマニスト]]王(西:el Humano, 伊:l'Umanista)と呼ばれる。
 
1396年、兄[[フアン1世 (アラゴン王)|フアン1世]]が男子を残さずに死去すると、アラゴン王位を継承した。
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1373年に結婚した王妃[[マリア・デ・ルナ]]との間の息子マルティン(若マルティン)はシチリア王[[マルティーノ1世 (シチリア王)|マルティーノ1世]]となったが、1409年にマルティーノ1世が嗣子なしに死去すると、マルティーノ2世として息子の王位を継承した。
 
翌1410年には自身も嗣子なしに死去し、後継者も定めていなかったため、マルティン1世の君主位の継承者が定まるまでには2年を要した。1412年に[[カスペの妥協]]で、アラゴン、バレンシア、[[カタルーニャ君主国|カタルーニャ]]、シチリアなどの君主位は、妹[[レオノール・デ・アラゴン (カスティーリャ王妃)|レオノール]]と[[カスティーリャ君主一覧王国|カスティーリャ]][[フアン1世 (カスティーリャ王)|フアン1世]]の子である[[フェルナンド1世 (アラゴン王)|フェルナンド1世]]が継承した。なお、死因については消化不良([[:en:{{enlink|Dyspepsia|indigestion(en)]])a=on}}及び[[笑い死に]]とされる<ref>{{cite web|last=Norris|first=Paul N.|title=Patronage and Piety|url=http://www.glossa.fi/mirator/pdf/Morris.pdf Morris.pdf|publisher=Mirator Lokakuu|accessdate=18 May 2011}}</ref><ref name=doran>John Doran, ''The History of Court Fools'' (Boston: Francis A. Niccolls & Co., 1858), 377-378.</ref>
 
== 脚注 ==