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[[ファイル:Johann_Gottfried_Auerbach_002.JPG|thumb|200px|カール6世([[ヨハン・ゴットフリート・アウエルバッハ]]画)]]
'''カール6世'''(Karl VI., [[1685年]][[10月1日]] - [[1740年]][[10月20日]])は、[[ハプスブルク家]]の[[神聖ローマ皇帝]](在位:[[1711年]] - 1740年)、[[ハンガリー王国|ハンガリー]][[ハンガリー国一覧|王]]、[[ボヘミア]][[王国|ボヘミア君主一覧|王]]。[[レオポルト1世 (神聖ローマ皇帝)|レオポルト1世]]と皇后[[エレオノーレ・マグダレーネ・フォン・プファルツ=ノイブルク|エレオノーレ・マグダレーネ]]の次男で[[ヨーゼフ1世]]の弟。[[マリア・テレジア]]の父。ハプスブルク家最後の男系男子でもある。
 
==生涯==
[[1700年]]、従兄の[[スペイン帝国|スペイン]][[スペイン君主一覧|]][[カルロス2世 (スペイン王)|カルロス2世]]が病死、カルロス2世には男児がなかったため、[[スペイン・ハプスブルク朝|スペイン・ハプスブルク家]]は断絶した。そのため、カールの父レオポルト1世は、カルロス2世の後継者としてカールを送ろうとした。しかしカルロス2世は生前、[[フランス王国|フランス]][[フランス君主一覧|]][[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]の孫アンジュー公フィリップ([[フェリペ5世 (スペイン王)|フェリペ5世]]として即位)を推薦していたため、ここに[[スペイン継承戦争]]が起こった。これは[[イングランド王国|イングランド]]や[[ネーデルラント連邦共和国|オランダ共和国]]などが、フランスがスペインを併合することで[[ヨーロッパ|欧州]]のバランス・オブ・パワーが崩れることを恐れたためである<ref>友清、P12 - P26、マッケイ、P61 - P67。</ref>。
 
カールは[[1703年]]に同盟国[[ポルトガル王国|ポルトガル]]へ渡り、[[1705年]]にイングランドの将軍[[チャールズ・モードント (第3代ピーターバラ伯)|ピーターバラ伯]]が[[バルセロナ]]を占領すると([[バルセロナ包囲戦 (1705年)|第1次バルセロナ包囲戦]])、バルセロナに入って[[マドリード]]のフェリペ5世と対峙した。[[1706年]]にスペイン軍に包囲されたバルセロナを守り抜き([[バルセロナ包囲戦 (1706年)|第2次バルセロナ包囲戦]])、ポルトガルから進軍してマドリードを落としたイングランドの将軍[[ヘンリー・デ・マシュー (ゴールウェイ伯)|ゴールウェイ伯]]・ピーターバラと合流した。しかし、フェリペ5世にマドリードを奪い返され、翌[[1707年]]にピーターバラがイングランドへ召還、ゴールウェイがフランスの将軍[[ジェームズ・フィッツジェームズ (初代ベリック公)|ベリック公]]に[[アルマンサの戦い]]で大敗するとスペインの殆どを制圧され劣勢になった。
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[[1708年]]、[[ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル侯領|ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル家]]の[[エリーザベト・クリスティーネ・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル (1691-1750)|エリーザベト・クリスティーネ]](兄ヨーゼフ1世の皇后[[アマーリア・ヴィルヘルミーネ・フォン・ブラウンシュヴァイク=カレンベルク|アマーリア・ヴィルヘルミーネ]]と同族)とバルセロナで婚礼を挙げ、[[1710年]]に[[グレートブリテン王国|イギリス]]の将軍[[ジェームズ・スタンホープ (初代スタンホープ伯)|ジェームズ・スタンホープ]]とオーストリアの将軍[[グイード・フォン・シュターレンベルク]]が反撃してマドリードを再占領したが、フェリペ5世に再び奪回された上、フランスから援軍を率いた[[ルイ・ジョゼフ・ド・ブルボン|ヴァンドーム公]]が同盟軍を急襲、スタンホープは[[ブリウエガの戦い]]で捕らえられシュターレンベルクも[[ビリャビシオーサの戦い]]で敗北、フェリペ5世の優位は決定的になった<ref>友清、P74 - P76、P156 - P159、P177 - P179、P197 - P199、P292 - P294。</ref>。
 
1711年、兄が死去すると情況が大きく変わった。兄には息子がなく、皇帝選出のためドイツへ戻ったカールがカール6世として帝位を継ぐことになったのである。こうなると、もしカール6世がスペイン王位も継承すれば、かつての[[カール5世 (神聖ローマ皇帝)|カール5世]](スペイン王カルロス1世)のような欧州の広大な領土に君臨する強大な君主の出現となり、やはりパワーバランスが崩れてしまうことになる。そこで[[1713年]]、イングランドギリスなどはフランスとスペインが併合されないことを条件として、フェリペ5世の即位を認めることにして[[ユトレヒト条約]]を結んだ。こうしてスペイン王位を断念せざるを得なくなり、[[1714年]]にオーストリアもフランス・スペインと[[ラシュタット条約]]を締結した。残されたバルセロナは[[1714年]]にフェリペ5世に落とされている([[バルセロナ包囲戦 (1713年-1714年)|第3次バルセロナ包囲戦]])<ref>友清、P303 - P304、P314 - P315、P362 - P366、マッケイ、P171 - P176、P185 - P192。</ref>。
 
その後は対外戦争に力を注ぎ、父の代から続いていたハンガリーの[[ラーコーツィ・フェレンツ2世]]の[[ラーコーツィの独立戦争|反乱]]を終息させ、[[南ネーデルラント]](現在の[[ベルギー]]など)から[[ミラノ公国]]などに勢力を拡大する。また[[サヴォイア公国]]との間で[[シチリア王国|シチリア]]と[[サルデーニャ島|サルデーニャ]]の交換が成立し、その際サヴォイア公[[ヴィットーリオ・アメデーオ2世]]に[[サルデーニャ王国|サルデーニャ王]]の称号を認めた。更に[[1716年]]、[[オスマン帝国]]との間に[[墺土戦争 (1716年-1718年)|墺土戦争]]が起こると[[バルカン半島]]に[[オイゲン・フォン・ザヴォイエン|プリンツ・オイゲン]]を派遣してオスマン帝国[[スルターン|スルタン]]・[[アフメト3世]]と戦い勝利、[[1718年]]の[[パッサロヴィッツ条約]]でオスマン帝国から[[ベオグラード]]を奪い、[[ハプスブルク君主国|ハプスブルク帝国]]の最大版図を築き上げた。
 
しかし、スペイン領イタリアを巡ってスペインとの対立は続き、[[四カ国同盟戦争]]ではスペインに勝利したが、[[大北方戦争]]では[[ロシア・ツァーリ国|ロシア]]の[[ツァーリ]]・[[ピョートル1世]]の[[バルト海]]進出を抑えるためイギリス王兼[[ハノーファー王国|ハノーファー]][[ハノーファー君主一覧|選帝侯]][[ジョージ1世 (イギリス王)|ジョージ1世]]及び[[ポーランド・リトアニア共和国|ポーランド]][[ポーランド国|王]]兼[[ザクセン選帝侯領|ザクセン]][[ザクセン君主一覧|選帝侯]][[アウグスト2世 (ポーランド王)|アウグスト2世]]と同盟を結んだものの、その後消極的な姿勢を取ったためイギリスが離反して[[1721年]]にフランス・スペインと同盟を結びオーストリアは孤立したが、[[1725年]]にスペインと[[ウィーン条約 (1725年)|ウィーン条約]]を締結してそれまでの対立を解消、[[1726年]]にオイゲンの尽力でロシア・[[プロイセン王国|プロイセン]]と同盟を締結して孤立から脱した。[[1727年]]からスペインとイギリスの小規模な戦争が行われ[[1729年]]に[[セビリヤ条約 (1729年)|セビリヤ条約]]で終結するとスペインとの関係は終わったが、イギリスと新たに[[1731年]]に[[ウィーン条約 (1731年)|ウィーン条約]]を締結して同盟を結び直した<ref>成瀬、P21 - P24、マッケイ、P207 - P236、P276 - P297。</ref>。
 
ハプスブルク家ではそれまで所領の分割相続が行なわれ、家領の統治の一体性が損なわれてきた。そのためカール6世は[[1713年]]、[[国事詔書]]を出して領土の分割禁止と長子相続を決定した。この政策で全領土の支配層及び諸国の承認を求め、ハンガリーは貴族の特権を承認、ドイツ諸侯は[[1732年]]に承認、イギリスは東インド会社の解散と引き換えに[[1731年]]に、フランスは[[1733年]]から[[1735年]]の[[ポーランド継承戦争]]で[[ロレーヌ公国]]を手放すことで承認を取り付けた。
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== 関連項目 ==
*[[カールス教会]]
 
{{神聖ローマ皇帝}}
{{先代次代|[[ボヘミア君主一覧|ボヘミア王]]|1711年 - 1740年|[[ヨーゼフ1世 (神聖ローマ皇帝)|ヨーゼフ1世]]|[[カール7世 (神聖ローマ皇帝)|カール7世]]}}
{{先代次代|[[オーストリア君主一覧|オーストリア大公]]<br/>[[ハンガリー国王一覧|ハンガリー王]]|1711年 - 1740年|[[ヨーゼフ1世 (神聖ローマ皇帝)|ヨーゼフ1世]]|[[マリア・テレジア]]}}
{{先代次代|[[ナポリとシチリアの君主一覧|ナポリ王]]|1707年 - 1735年|[[フェリペ5世 (スペイン王)|フェリペ5世]]|[[カルロス3世 (スペイン王)|カルロ7世]]}}
{{先代次代|[[サルデーニャ君主一覧|サルデーニャの君主]]|1707年 - 1720年|[[フェリペ5世 (スペイン王)|フェリペ5世]]|[[ヴィットーリオ・アメデーオ2世|ヴィットーリオ・アメデーオ2世]]}}
{{先代次代|[[ナポリとシチリアの君主一覧|シチリア王]]|1720年 - 1734年|[[ヴィットーリオ・アメデーオ2世|ヴィットーリオ・アメデーオ2世]]|[[カルロス3世 (スペイン王)|カルロ5世]]}}
{{先代次代|[[パルマ公の一覧|パルマ公]]|1735年 - 1740年|[[カルロス3世 (スペイン王)|カルロ1世]]|[[マリア・テレジア|マリア・テレーザ]]}}
{{先代次代|[[アラゴン君主一覧|アラゴン王]]<br>[[バルセロナ伯]]|1705年 - 1714年|[[フェリペ5世 (スペイン王)|フェリペ5世]]|フェリペ5世}}
{{アラゴン王}}
{{先代次代|[[バルセロナ伯]]|1705年 - 1714年|[[フェリペ5世 (スペイン王)|フェリペ5世]]|フェリペ5世}}
{{先代次代|[[チェシン公国|テシェン(チェシン)公]]|1711年 - 1722年|[[ヨーゼフ1世 (神聖ローマ皇帝)|ヨーゼフ1世]]|[[レオポルト (ロレーヌ公)|レオポルト]]}}
 
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[[Category:シレジアの君主]]
[[Category:ナポリの君主]]
[[Category:シチリアの君主]]
[[Category:パルマ公]]
[[Category:ネーデルラントの君主]]