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[[ファイル:Mikisaburo Rai Shichizetsu Nigyo.jpg|thumb|150px|頼三樹筆]]
'''頼 三樹三郎'''(らい みきさぶろう、男性、[[1825年]][[7月11日]]([[文政]]8年[[5月26日 (旧暦)|5月26日]])- [[1859年]][[11月1日]]([[安政]]6年[[10月7日 (旧暦)|10月7日]]))は、[[江戸時代]]末期([[幕末]]の[[儒教|儒学者]]。名は醇。通称は三木八。号は鴨崖。父は「[[日本外史]]」で有名な[[儒学者]]・[[頼山陽]](三樹三郎は三男)。母は近江商人・疋田藤右衛門の四女、梨影(りえ)
 
== 経歴生涯 ==
1825年、儒学者の頼山陽の三男として[[京都]]三本木に誕生。母は近江商人・疋田藤右衛門の四女・梨影(りえ)。
[[京都]]三本木にうまれる。父だけでなく、[[1840年]]からは[[大坂]]の儒学者・[[後藤松陰]]や[[篠崎小竹]]らに学んだ。[[1843年]]からは[[江戸]]で儒学を学んだが、[[徳川将軍家]]の[[菩提寺]]である[[寛永寺]]の[[灯籠|石灯籠]]を破壊するという事件を起こして退学処分とされた。このとき、彼はすでに[[尊皇]]運動に感化されており、幕府の朝廷に対する軽視政策に異議を唱えて行なった行動であると言われている。
 
父・山陽をはじめ、[[1840年]]からは[[大坂]]の儒学者・[[後藤松陰]]や[[篠崎小竹]]らに学んだ。[[1843年]]からは[[江戸]]で儒学を学んだが、[[徳川将軍家]]の[[菩提寺]]である[[寛永寺]]の[[灯籠|石灯籠]]を破壊する事件を起こして退学処分とされた。この時には[[尊皇]]運動に感化されており、[[江戸幕府]]の[[朝廷]]に対する軽視政策に異議を唱えて行なった行動といわれている。その後、[[東北地方]]から[[蝦夷地]]へと遊歴し、[[松前藩]]で探検家の[[松浦武四郎]]と親友となった。[[1849年]]には京都に戻り、再び勤王の[[志士]]として活動する。それでも、母が存命ている間ばらくは母の注意もあって自重していたが、やがて母すると家族を放り捨てて勤王運動にのめり込んだ。
 
[[1853年]]に[[アメリカ合衆国]]の[[マシュー・ペリー|ペリー]]が来航して一気に政情不安や[[尊皇攘夷]]運動が高まりの兆しを見せ始め、[[1858年]]には将軍後継者争いが勃発すると、尊王攘夷推進と[[徳川慶喜]](一橋慶喜)擁立を求めて朝廷に働きかけたため、[[大老]]の[[井伊直弼]]から[[梅田雲浜]]・[[梁川星巌]]・[[池内大学]]と並ぶ危険人物の一人と見なされた。同年、幕府による[[安政の大獄]]で捕らえられて江戸の[[備後福山藩|福山]][[藩邸]]において幽閉される。父・山陽の愛弟子である福山藩主の侍講・[[関藤藤陰|石川和助]]は、父・頼山陽の愛弟子であり、三樹三郎を厚遇すると同時に必死で助命嘆願を行った。だが、幕府の厳しい姿勢は変わらず、間もなく江戸[[小塚原刑場]]で斬首された。墓は京都[[円山公園]]の裏にある[[長楽寺]]
 
[[1853年]]に[[マシュー・ペリー|ペリー]]が来航して一気に政情不安や[[尊皇攘夷]]運動が高まりの兆しを見せ始め、[[1858年]]には将軍後継者争いが勃発すると、尊王攘夷推進と[[徳川慶喜]](一橋慶喜)擁立を求めて朝廷に働きかけたため、[[大老]]の[[井伊直弼]]から[[梅田雲浜]]・[[梁川星巌]]・[[池内大学]]と並ぶ危険人物の一人と見なされて[[安政の大獄]]で捕らえられて江戸の[[備後福山藩|福山]][[藩邸]]において幽閉される。福山藩主の侍講・[[関藤藤陰|石川和助]]は、父・頼山陽の愛弟子であり、三樹三郎を厚遇すると同時に必死で助命嘆願を行った。だが、幕府の厳しい姿勢は変わらず、間もなく江戸[[小塚原刑場]]で斬首された。
墓は、京都[[円山公園]]の裏にある[[長楽寺]]にある。
[[File:頼三樹三郎墓.JPG|thumb|頼三樹三郎の墓・京都市東山区長楽寺にて(2012年3月28日撮影)]]
 
== 参考文献 ==
*[[中村真一郎]]『頼山陽とその時代』(1971年、中央公論社)
*頼三樹三郎 [[安藤英男]] 新人物往来社, 1974