「マウマウ団の乱」の版間の差分

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[[1952年]]から、KLFAは各地の白人農場、警察署、政府軍用地、親植民地派のケニア人を襲撃した。軍事的にはこの襲撃は失敗に終わったが、結果としてケニア独立を早めることとなった。
 
イギリス側は、マウマウ側の掃討に乗り出し、[[10月20日]]に[[ジョモ・ケニヤッタ]]ら[[ケニア・アフリカ民族同盟]](KANU)の指導者を逮捕し、扇動者として裁判に付された。反乱は他の諸民族をも巻き込み、イギリスは正規軍5万人、戦車、爆撃機などを投入しナイロビで2万7千人、農村で107万人の反乱支持者を逮捕してマウマウをた。[[ケニア山]]の山林内に封じ込められマウマウは、{{仮リンク|ワルヒウ・イトテ|en|Waruhiu Itote}}を中心に巧みなゲリラ戦で抵抗した。
 
[[1956年]]に[[ニエリ]]方面の指導者{{仮リンク|デダン・キマジ・ワキウリ|en|Dedan Kimathi}}([[キクユ語]]: {{lang|ki|Dedan Kimathi Waciuri}})の逮捕により終結。この反乱による死者は白人入植者95人、親植民地派とみなされたアフリカ人1920人、マウマウ側は、11503人だった。

== 結果 ==
イギリス軍は、ケニア植民地予算の4年分に匹敵する巨額の戦費支出を余儀なくされ、これを機にケニアは1963年に独立した。
 
== 脚注 ==