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'''秩父 重綱'''(ちちぶ しげつな、生没年未詳)は、[[平安時代]]後期の武将・[[豪族]]。'''平 重綱'''とも。[[秩父氏]]の当主で、父は
== 概要 ==
父は[[鎮守府将軍]][[平良文]]の玄孫にあたり、[[前九年の役|前九年]]・[[後三年の役]]に従軍し、後三年の役では[[源義家]]から源氏の旗印である白旗を賜って先陣を務めた平武綱。祖父・[[平武基]]が秩父別当となり、この重綱の代に[[在庁官人]]として実際に[[武蔵国]]で力を持つようになる。のちの[[鎌倉幕府]]の編纂書『[[吾妻鏡]]』によれば、子孫である畠山氏や河越氏が有した「武蔵惣検校留守所」は、重綱の代から代々秩父氏の家督が補任されてきたという。重綱の代には「大主」(一国を領有する[[大名]]のようなもの)と呼ばれ、のちに[[国衙]]支配を確立していく中で惣検校職という名称が確立したと考えられる。武蔵国[[比企郡]][[平沢寺]]境内から発掘された[[久安]]4年([[1184年]])の年紀を持つ[[経筒]]に「当国大主散位平朝臣茲(重)綱方縁寺」とある。出羽権守として[[出羽国]]の[[国司]]を務めている。
長男の重弘は畠山氏の祖となり、家督を継いだ次男の重隆は河越氏の祖となって両者の家系で秩父氏家督を巡る争いが続く事になる。
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