「勝新太郎」の版間の差分

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{{複数の問題
| 出典の明記 = 2013年3月3日 (日) 03:26 (UTC)
| 参照方法 = 2013年3月11日 (月) 23:15 (UTC)
}}
{{ActorActress
| 芸名 = 勝 新太郎
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23歳の時に[[大映]]京都撮影所と契約、[[1954年]]の『花の白虎隊』で[[デビュー]]。大映社長[[永田雅一]]は勝を可愛がり、白塗りの[[二枚目]]として[[市川雷蔵 (8代目)|市川雷蔵]]に次ぐ役者として熱心に主要な役を与え続けたが、思うように人気が出なかった。同年代の雷蔵・[[山本富士子]]・[[若尾文子]]が早々とスターとして活躍していくのとは対象的に、憧れの[[長谷川一夫]]そっくりのメイクも板につかず、主演作のあまりの不人気ぶりに映画館の館主達からは「いい加減に勝を主役にした映画を作るのはやめてくれ」との苦情が絶えず寄せられるほどだったが、[[1960年]]の『不知火検校』で野心的な悪僧を演じたことにより、それまでの評価を一新することとなる。
 
[[1961年]]、[[中村鴈治郎 (2代目)|二代目中村鴈治郎]]の長女で同じ大映に在籍していた女優の[[中村玉緒]]と婚約。玉緒とは『不知火検校』や一匹狼のやくざ・朝吉役で主演した『[[悪名]]』([[田中徳三]]監督、[[今東光]]原作、[[依田義賢]]脚本、[[田宮二郎]]共演)などで共演している<ref>『悪名』の中ではすき焼き屋の女中・お絹役の玉緒に朝吉が「きっと妻にします」と一札を入れるシーンがある。</ref>。この映画が初のヒットとなりシリーズ化。1962年3月5日、永田の媒酌で結婚。続く『[[座頭市物語 (映画)|座頭市物語]]』、『[[兵隊やくざ]]』で不動の人気を獲得。1963年に長谷川・山本が大映を退社する中、勝は一躍大映の大黒柱の一人となる。これ以降、[[1969年]][[8月29日]]に雷蔵が死去するまで、大映の2枚看板として「'''カツライス'''」と称され、その屋台骨を支えた。特に一連の[[座頭市|座頭市シリーズ]]での演技評価が高く、日本のみならずアジア各地でも上映され、勝の代表作となっている。
 
=== 勝プロ時代 ===
[[1967年]]に勝プロダクションを設立、自ら映画製作に乗り出す。この時期、大手五社によるブロックブッキング体制・[[五社協定]]崩壊の中、[[三船敏郎]]の[[三船プロ]]、[[石原裕次郎]]の[[石原プロ]]、中村錦之助([[萬屋錦之介]])の[[中村プロ]]など映画スターによる独立制作プロダクションの設立が続いた。
 
勝プロは、既に経営が立ち行かなくなった末期の大映が傾倒した若者向けの暴力・エロ・グロ路線の作品とは一線を画し、[[三隅研次]]・[[安田公義]]・[[森一生]]・[[増村保造]]ら大映出身の監督たちと時代劇の伝統を絶やさぬよう拘りぬいた映画制作を続け、[[勅使河原宏]]・[[五社英雄]]・[[斎藤耕一]]・[[黒木和雄]]ら、当時若手だった監督たちとも製作で手を組んだ。また、一方では『[[男一匹ガキ大将]]』や実兄・[[若山富三郎]]主演の『[[子連れ狼 (若山富三郎版)|子連れ狼]]』、自身も主演した『[[御用牙]](米国では[[:en:Hanzo the Razor|Hanzo the Razor]]のタイトルでDVDが発売されている)』などマンガ・劇画映画化するという新機軸にも挑み、[[テレビドラマ]]製作にも進出した。<!--(根拠となる出典記載が無いためコメントアウト)1970年代前半には映画製作者として一時代を築き、日本のみならず東南アジアの映画マニアに影響を与えた。-->
 
特に[[1971年]]、製作・監督・脚本・主演をこなした映画『顔役』は、撮影の殆どを手持ちカメラで行い、極端なクローズアップを多用し状況説明的な描写を廃したカットつなぎなど、典型的な刑事ドラマでありながらも、それまでの日本映画の映画文法を破り、先進的な手法を使った作品と評された<ref>[http://www.nihon-eiga.com/program/detail/nh10005188_0001.html 日本映画専門チャンネル / 放送作品一覧 / 顔役(2013年3月7日閲覧)]。</ref><ref>[http://neco.weblogs.jp/necomimi/2012/04/neco16-400a.html チャンネルNECO耳より情報 / ぴあ×チャンネルNECO強力コラボ連載第16弾! / 勝新の監督デビュー作について語る!(2012年4月20日)]([[2013年]][[3月7日]]閲覧)</ref>。 
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晩年の住居は[[東京タワー]]が見えるマンションだった。妻・玉緒との夫婦喧嘩で収拾がつかなくなると窓を指して、「東京タワーが見てる」と言いながら玉緒の機嫌をとることも度々であったという。勝の豪放な語り口と泰然としたキャラクターは、古参お笑い芸人達の格好のネタ元になっている。旧・勝プロが設立、運営していた演劇学校「勝アカデミー」出身の[[小堺一機]]や[[ルー大柴]]をはじめ、[[タモリ]]、[[明石家さんま]]等。
 
テレビインタビューで[[鴈龍]]の証言によれば、ファンへのサービス精神も旺盛で、ファンから頼まれたサインを断ったことはなかったという。なお、色紙には必ず傍らに『座頭市』の毛筆イラストを添えている。{{要出典範囲|date=2013年3月11日 (月) 23:15 (UTC)|これは、大映時代の弟子筋にあたる[[日高晤郎|細谷新吾]](日高晤郎)が考案したものを気に入り、教わったもので、「新吾は俺のサインの家元なんだよ」と語っている<ref>1994年 [[札幌テレビ放送|STV]]『[[日高晤郎のスーパーサンデー]]』出演時の本人コメントによる。</ref>}}
 
「俺から遊びを取ったら何も残らない」と豪語し、豪遊は当たり前だった。実兄の若山は下戸であるが、勝は若い頃から大酒飲みで座持ちは抜群。得意の三味線や歌、愉快な話を披露し、[[芸者]]達をも楽しませた。しかも、取り巻きが飲んでいる間に徐々に増え、最初10人ほどだったのが100人近くに増えることは珍しくなかったという。同期入社で若い頃より長者番付に入っていた雷蔵がスタッフを飲みに連れて行っても割り勘であったのとは違い、飲食代は勝が全て支払っていた。結果、不摂生な生活で肥満体型になり、役柄も限定されるようになった。大映倒産後は時代を追うごとに収入が激減、特に勝プロダクションが倒産してからは借金取りにまで追われる生活であったにも関わらず、借金で豪遊し、高級車に高級な服とスター然とした豪勢な生活を続け、返済できぬまま死去。妻の玉緒が完済のために奔走することとなった。ちなみに[[1978年]]に42歳で早世した歌手の[[水原弘]]は、[[1960年代]]に一時映画界に進出した際、勝と懇意となり「兄貴分」と慕うようになるが、勝のこうした生き様への憧憬から以来、破天荒な生活へ傾倒。結果、ギャンブルや豪遊による莫大な借金を抱え、日常的な飲酒で命を縮めることとなった。
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** 悪名一代(1967)
** 悪名十八番(1968)
** 悪名一番勝負(1969) - シリーズ最終作。[[田宮二郎]]は大映とトラブルを起こし解雇<ref group="注">事実上の映画界追放。</ref>となったため、出演していない
** 悪名縄張り荒らし(1974) - 勝プロ製作、東宝配給。「続・悪名」のリメイク作品。共演は[[北大路欣也]]。
 
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* 泥水のみのみ浮き沈み―勝新太郎対談集(1994年、[[文藝春秋]])
 
== 関連書籍参考文献 ==
* 市山隆一『私論・勝新太郎―「勝新語録」とその背景』(1998年5月、[[講談社]])ISBN 978-4062090896
* 『勝新太郎(別冊太陽)』(1998年6月、[[平凡社]])ISBN 978-4582943139
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== 脚注 ==
=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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