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[[Image:ST-Speke.jpg|thumb|right|200px|ジョン・ハニング・スピーク]]
'''ジョン・ハニング・スピーク''' ('''John Hanning Speke''', [[1827年]][[5月4日]] - [[1864年]][[9月15日]]) は、[[イギリス]]の探検家。[[ヴィクトリア湖]]と{{仮リンク|リポン滝|en|Ripon Falls}}の命名と[[{{仮リンク|ハム仮説]]|en|Hamitic#Hamitic hypothesis}}の提唱で知られている。
 
[[デヴォン]]で生まれたスピークは1844年に17歳で[[英印軍]]の前身の[[イギリス東インド会社]]の軍に入隊し、[[{{仮リンク|コリン・キャンベル (クライド男爵)|en|Colin Campbell, 1st Baron Clyde|label=コリン・キャンベル]]}}の元で[[{{仮リンク|アングロ・シク戦争|en|Anglo-Sikh wars|label=シク戦争}}([[:en:First Anglo-Sikh War]]に従軍した。休暇にはヒマラヤを探検し、一度はチベットに渡った。
 
1854年当時既に有名であった[[リチャード・フランシス・バートン]]とソマリアを探検した。これはうまくいかず2人とも負傷した。スピークは捕えられ何度か槍で刺されたが逃げ出した。バートンも両頬を投げ槍で傷付けられた。スピークはイギリスに戻ると[[クリミア戦争]]に従軍した。
 
1856年バートンとスピークはヨーロッパ人には確認されていなかった[[ナイル川]]源流の「発見」を信じて[[東アフリカ]]から[[アフリカ大湖沼]]地域へ探検した。スピークは耳に入った虫をナイフで掻き出してその耳が一時的に難聴になった。またある時は一時的に目が見えなくなった。2人はヨーロッパ人で初めて[[タンガニーカ湖]]に達し、[[ヴィクトリア湖|ウケレウェ湖]]({{lang|en|Lake Ukerewe}})と呼ばれる別の湖についても聞いたが、バートンの病のためにスピークが一人で冒険し、ヴィクトリア湖と命名した。観測機器が故障したため詳細な地理的データは採取できなかった。
[[Image:BurtonExploration-fr.png|300px|thumb|バートン、スピーク、グラントの探検経路]]
スピークは1859年5月8日にバートンより先にイギリスに戻り2人の冒険について[[王立地理学協会]]で講演し、ヴィクトリア湖がナイル川の水源であると主張した。1864年、英国学術協会の総会前日に銃の暴発によって死亡。一説では自殺とも言われる。