「北条高直」の版間の差分

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[[鎌倉幕府]]の[[連署]]を務めた北条維貞(貞宗)の子として生まれる。[[後醍醐天皇]]らの討幕運動([[元弘の乱]])が起こると、幕府軍の大将の一人として各地を転戦した。鎌倉幕府滅亡頃には幕府軍を率いて[[河内国]][[金剛山 (金剛山地)|金剛山]][[千早城]]に立て籠もっていた[[楠木正成]]を攻めていたが、[[足利尊氏]]の離反や[[六波羅探題]]の滅亡もあって軍は四散し、高直は5月10日に残った軍勢を率いて[[奈良]]に逃れた。5月22日に[[北条高時]]らが自害したことを知ると、抗戦を諦めて6月5日に剃髪した上で尊氏に降伏し、[[京都]]に幽閉された。
 
尊氏自身は北条家と縁戚関係にあったこと(尊氏と高直ははとこにあたる)から高直の助命を嘆願していたが、建武元年(1334年)3月9日に北条家の残党らによる[[鎌倉]]侵攻事件などがあったことから北条一族の徹底的な殲滅が強められることになり、9月9日に[[北条治時|阿曾治時]]らと共に京都阿弥陀峰で斬首に処された。
 
処刑の日の9月9日は[[太平記]]より参考にしたものであり、他の史料では3月21日([[梅松論]]・[[蓮花寺過去帳]])、4月([[保暦間記]])、5月など時期が一致しないものが多い。