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国際母語デー([[2月21日]])とは、言語と文化の多様性、多言語の使用、そしてあらゆる母語の尊重の推進を目的として、[[国際連合教育科学文化機関]](ユネスコ)が[[1999年]][[11月17日]]に制定した、国際デーのひとつである。
この[[国際デー]]は、[[1952年]]2月21日、当時はパキスタンの一部だったバングラデシュの首都[[]]で、[[ベンガル語]]を公用語として認めるように求めるデモ隊に警官隊が発砲し、死者が出たことに因むものである。バングラデシュでは、独立運動の中の重要なできごとの一つとしてこの日を「言語運動記念日」としていた。
==歴史==
宗主国大英帝国[[イギリス]]がインドを去る[[1947年]]、かつての植民地は[[宗教]]を基に[[インド]]と[[パキスタン]]に分けられた。パキスタンは西パキスタンと東パキスタン(現[[バングラデシュ]])から構成された。人口は東パキスタンが多かったものの、政治の中枢は西パキスタンにあった。東パキスタン(現バングラデシュ)の人々は、[[ベンガル語]]という、西パキスタンの人々の 言語(ウルドゥ語)とは異なることば言語語としていた(両言語は、[[インドヨーロ ッパ族]]としての起源は共有するものの、日常の言語としてはかなりの隔たりがあった。
イスラム教徒の言語による団結を掲げた[[ジンナー]]はじめ[[パキスタン]]政府は、全パキスタンの[[国語]]としてウルドゥ語を掲げたが、うなると、れは[[バングラデシュ]]の人々が公職に就こうとするならくためには、[[ウルドゥ語]]を学 ばなければならないことになる。 首都これある対しカ大学の学生がすぐさま抵抗を開始した。1952年2月21日、学生たちは抗議活動を宣言した。中央政府は封じ込めにかかった。法令144を発動し、集会を禁じることでこの封じ込めにかかった。集会は反政府行動とみなし、射殺する、とした。その日([[2月21日]])、集会を開いている学生たちがいた。行動を中止しようと言う 学生たち、命を賭して戦おうと言う学生たち。結局学生たちは命より 言語(ベンガル語)を選び、敢然と行動した。そして死んでいった。
Rafiq, Jabbar, Shafiur and そしてSalam、その他、勇気ある学生たちが犠牲となった。 彼らの倒れた[[ダッカ]]大学構内の地に、Shahid Minal[[ショヒド・ミナール]](言語に殉じた若者 たちの碑)が建てられた。碑は、悲しみの母と倒れた息子たちを表している。 母語を死守しようして倒れた息子たちを思い、母は頭(こうべ)を垂れる。後ろ の赤い円は、死んでいった若者たちの血である。 人が命に代えて言語を守ったのは、歴史で初めてのことだった。
それから 半世紀後の1999年、ユネスコは、2月21日を[[国際母語デー]](International Mother Language day)に制定した。世界のあらゆる[[言語]]を守るために。 Shahid Minar(言語に殉じた若者たちの碑)
なお[[ショヒド・ミナール]]のレプリカは世界各地に建てられている。日本にも。東京、[[池袋]]近くの公園に存在する
==日本語の言語の特異性==
*[[川柳]]
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==日本と国際母語デー==
 国連による国際母語デーとしての制定をうけ、日本でもこの日([[2月21日]])を記念する動きが広がっている。先述の通り池袋駅西口の公園には、その母語の日の恒久的記念碑である殉難者顕彰碑ショヒド・ミナールが建設され、毎年2月21日には母語を見つめ直すイベントが開催されている。
 
==国際母語デーの意義==
世界の[[共通語]](Lingua Franca)としての英語の圧倒的な隆盛の一方で、消滅したりといった危機にさらされる言語が後を絶たない。このような状況下、国際母語デーの意義は大きい。
近年バングラデシュ国内では、隣接するインドからのテレビ放送により主に子供達の間に[[ヒンディー語]]が広まりつつあり、その反動としてベンガル語愛護運動が盛んとなっている。このベンガル語愛護運動のよりどころとして、この国際母語デーは存在感を増している。
 
== 関連項目 ==