「源頼俊」の版間の差分

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この戦では頼俊はさしたる恩賞を受けなかったが、その軍事力のほとんどを頼んでいた貞衡は[[鎮守府将軍]]従五位下に叙せられ、武則以来の清原氏による鎮守府将軍職への就任を果たしている。帰京した後の頼俊は[[京武者]]として活動し、[[承暦]]3年([[1079年]])の[[延暦寺]][[衆徒]]による[[強訴]]入京に際しては「前陸奥守」として[[源頼綱]]([[多田源氏]])や[[源仲宗]]([[信濃源氏]])、[[平正衡]]([[伊勢平氏]])などと共に防禦の任にあたったほか、[[永保]]元年([[1081年]])には御所への直訴により濫妨しようとした[[園城寺]]の僧徒らを朝廷の命により捕らえるという武功も上げている。
 
その後の[[応徳]]3年([[1086年]])に頼俊が延久蝦夷合戦での恩賞を求めて記したとされる前陸奥守源頼俊申文写には「前陸奥守従五位上源朝臣頼俊誠惶誠恐謹言、 …依 綸旨召進武蔵国住人[[平常家]]、伊豆国●●●散位惟房朝臣、  条条之勤不恥先蹤者也…」と記してあり、延久蝦夷合戦において[[豊島常家]]らの活躍があったことも記している。
 
== 和歌 ==