「ルートヴィヒ・ヴィルヘルム (バーデン=バーデン辺境伯)」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
8行目:
ルートヴィヒ・ヴィルヘルムは『トルコ人ルートヴィヒ』(Türkenludwig)、『帝国の盾』と呼ばれた。赤い上着が野戦でもよく目立つためトルコ人に『赤』と呼ばれていたからである。従兄のプリンツ・オイゲン同様、[[オスマン帝国]]の侵入に対するヨーロッパ側の防衛者であった。
 
オイゲンと共に[[1683年]]の[[第二次ウィーン包囲]]で解放軍に加わり、[[ロレーヌ公]][[シャルル5世 (ロレーヌ公)|シャルル5世]]に従い[[大トルコ戦争]]に参加、[[1686年]]に[[ブダ]]を陥落、[[1688年]]にシャルル5世と[[バイエルン大公|バイエルン選帝侯]][[マクシミリアン2世エマヌエル (バイエルン選帝侯)|マクシミリアン2世]]が[[大同盟戦争]]で[[フランス王国|フランス]]に対抗するため[[ライン川]]に送られると神聖ローマ帝国軍の司令官となった。翌[[1689年]]には[[ハンガリー王国|ハンガリー]]において駐留軍の最高司令官となり、[[1691年]]の[[{{仮リンク|スランカメンの戦い]]|en|Battle of Slankamen}}(現[[セルビア]]の地名)でオスマン帝国軍の侵攻時に勝利を挙げ、[[大宰相]][[キョプリュリュ・ムスタファ・パシャ]]を討ち取った。同年に大同盟戦争の[[ラインラント|ライン]]戦線に送られた。
 
[[スペイン継承戦争]]でも軍を指揮し、ライン川右岸の司令官に任命され、ストラスブールから[[シュトルホーフェン]]に及ぶ防衛線を築いてフランス軍に備えた。[[1702年]]9月に[[ランダウ]]を占領したが、[[10月14日]]の[[フリートリンゲンの戦い]]で[[クロード・ルイ・エクトル・ド・ヴィラール|ヴィラール公]]率いるフランス軍に打ち破られた。翌[[1703年]]にシュトルホーフェンで[[カミーユ・ドスタン (タラール公)|タラール伯]]の軍に気を取られている隙にヴィラールの軍が南に大きく迂回、ライン川を渡りストラスブール対岸の[[ケール (都市)|ケール]]を奪われた([[ケール包囲戦 (1703年)|ケール包囲戦]])。更にヴィラールはケールから東進してマクシミリアン2世のバイエルン軍と合流、帝国の危機を招いた。