「カミーユ・クローデル」の版間の差分

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== 生涯 ==
[[File:Rodin p1070087.jpg|thumb|left|200px|[[オーギュスト・ロダン|ロダン]]による像(1886年)]]
1864年、[[エーヌ県]]の[[:en:Fère-en-Tardenois|フェレ=アン=タルドノワ]] ([[:en:Fère-en-Tardenois|Fère-en-Tardenois]]) にて、父ルイ=プロスペル・クローデルと母ルイーズの間に3人兄弟の長女として生まれる。妹には母と同じルイーズの名前が与えられた。子供の頃から彫刻に親しみ、卓越した技術と才能を発揮していく。そしてまた類まれなる美貌をも持っていた。19歳の時に彫刻家[[オーギュスト・ロダン]]の弟子となる。時にロダン42歳。2人は次第に愛し合うようになるが、ロダンには内妻ローズがいたため[[三角関係]]となる。その関係はその後15年にわたって続いていく。
 
ロダンは2人の女性のどちらかを選ぶことはできなかった。ローズは大きな心の安らぎの存在であり、カミーユは若さと美貌と才能に満ち溢れた刺激的な存在であったため、ロダンは2人のどちらかを選ぶことはできなかった。その中でカミーユは20代後半にロダンの子を妊娠するも中絶し、多大なショックを受ける。2人の関係は破綻を迎え、ロダンは妻ローズのもとへ帰っていく。カミーユは徐々に精神が蝕まれを病み、40代後半に発狂する。
 
[[1913年]][[3月10日]]、48歳の時に家族によってパリ郊外[[ヌイイ=シュル=マルヌ]]の[[ヴィル・エヴラール精神病院]]に入れられた。その後[[第一次世界大戦]]の影響で南仏の[[モントヴェルク精神病院]]に移動させられ、そこが臨終の地になった。ルイーズはカミーユの芸術に理解を示さなかったため、2人の間には生涯確執が消えることはなかった。そのためルイーズと妹は精神病院に見舞いに行くことは一度もなく、ポールが数年に1度見舞うのみであった。
 
しかしポールも結婚し、外交官として任地の[[上海市|上海]]へ向かった後は姉と会う回数が激減した。晩年は毎朝決まって病院構内の礼拝堂に向かい祈った。カミーユは誰とも口を聞こうとせず、一人自己の世界に閉じこもった。また、ロダンへの憎しみと周囲の患者を見下すことでかろうじて自己の精神の孤高を保った。後年のみすぼらしい身なりで痩せこけ、精彩を欠いたその姿に面会したポールは愕然としたという
 
[[1943年]]、家族に看取られることなく亡くなった。78歳没。終生願ったのは故郷に帰ることであったが、叶うことはなかった。
 
精神を病んだ後カミーユは多くの作品を破壊したが、そのうち約90の彫像、スケッチ、絵画が現存した。死後の[[1951年]]、ポールは[[ロダン美術館 (パリ)|ロダン美術館]]で彼女の作品の展示を行った。
 
== 作品 ==