「吉備真備」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Addbot (会話 | 投稿記録)
m ボット: 言語間リンク 7 件をウィキデータ上の d:q1063276 に転記
整理
1行目:
{{otheruseslistotheruses|歴史上の人物|井原鉄道の駅|吉備真備駅|岡山県吉備郡にあった町|真備町}}
[[画像:Kibi-no-Makibi statue.jpg|thumbnail|220px|吉備真備像([[倉敷市役所#真備支所|倉敷市真備支所]])]]
'''吉備真備'''(きび の まきび、[[持統天皇]]9年([[695年]]) - [[宝亀]]6年[[10月2日 (旧暦)|10月2日]]([[775年]][[11月3日]]))は、[[日本]]の[[奈良時代]]の[[学者]]、[[政治家]]([[公卿]])。[[正二位]]・[[勲等|勲二等]]・[[右大臣]]。'''下道真備'''(しもつみち の まきび)、'''吉備下道真備'''(きび の しもつみち の まきび)などとも呼ばれた。
11行目:
帰朝後は[[聖武天皇]]や[[光明皇后]]の寵愛を得て、天平9年に[[従五位]]に列せられた。翌10年に[[橘諸兄]]が右大臣に任ぜられて政権を握ると、同時に帰国した僧玄昉とともに重用され、真備は[[近衛兵#令制の五衛府|右衛士督]]の役職を兼ねた。同11年8月母を葬るとされる<ref name="楊貴氏墓誌"/>。天平12年([[740年]])には、真備と玄昉を除かんとした[[藤原広嗣]]が[[大宰府]]で反乱を起こす。翌13年に[[東宮学士]]として[[皇太子]]阿倍内親王(後の[[孝謙天皇]]・[[孝謙天皇#称徳天皇|称徳天皇]])に『[[漢書]]』や『[[礼記]]』を教授した。その後、天平15年には[[従四位下]]、[[春宮坊|春宮大夫]]兼皇太子学士、同18年には吉備[[朝臣]]の姓を賜り、同19年に[[京職|右京大夫]]に転じて[[天平勝宝]]元年([[749年]])には[[従四位上]]に昇った。
 
孝謙天皇[[即位]]後の翌2年には、[[藤原仲麻呂]]が専権し、[[筑前国|筑前守]]、[[肥前国|肥前守]]に[[左遷]]される。同3年には遣唐副使となり、翌4年に入唐、阿倍仲麻呂と再会する。その翌年の[[勝宝]]6年([[754年]])に[[屋久島]]さらに[[紀伊国|紀州]][[太地町|太地]]に漂着するが、[[鑑真]]を伴って無事に帰朝する。
 
天平勝宝6年([[754年]])には[[大宰帥|大宰少弐]]に昇任、翌々8年に[[新羅]]に対する防衛のため[[筑前国|筑前]]に[[怡土城]]を築き、[[天平宝字]]2年([[758年]])に大宰府で[[唐]]での[[安史の乱|安禄山の乱]]に備えるよう[[勅]]を受け、翌3年に[[大宰帥|大宰大弐]](大宰府の次官)に昇任した。その後、暦学が認められ、[[儀鳳暦]]に替えて[[大衍暦]]が採用された。
 
天平宝字8年([[764年]])には[[造寺司|造東大寺長官]]に任ぜられ、70歳で帰京した。恵美押勝(藤原仲麻呂)が反乱を起こした際には、[[従三位]]に昇叙され、[[近衛兵#令外官|中衛大将]]として追討軍を指揮して乱鎮圧に功を挙げ([[藤原仲麻呂の乱]])、[[天平神護]]元年([[765年]])には勲二等を授けられた。翌2年、称徳天皇(孝謙天皇の[[重祚]])と[[法王]]に就任した[[道鏡|弓削道鏡]]の下で[[中納言]]となり、[[藤原真楯]]の[[死|薨逝]]で[[大納言]]となった後、右大臣に昇進して、[[左大臣]]の[[藤原永手]]とともに政治を執った。地方[[豪族]]出身者としては破格の出世であり、学者から立身して大臣にまでなったのも、[[近世]]以前では、吉備真備と[[菅原道真]]のみである。
 
宝亀元年([[770年]])、称徳天皇が[[崩御|崩じた]]際には妹の[[吉備由利|由利]]を通じて[[天皇]]の意思を得る立場にあり、永手らと白壁王(後の[[光仁天皇]])の[[立太子]]を実現した。
 
『[[水鏡]]』など後世の史書や物語では、後継の天皇候補として[[文室浄三]]および[[文室大市]]を推したが敗れ、「長生の弊、却りて此の恥に合ふ」と嘆息したという。ただし、この即位をめぐる話は『[[続日本紀]]』には認められず、この際の[[藤原百川]]の暗躍を含めて後世の誤伝あるいは作り話とする説が強い([[河内祥輔]]、[[瀧浪貞子]]など)。光仁天皇即位後、真備は老齢を理由に辞職を願い出るが、光仁天皇は兼職の中衛大将のみの解任を許し、右大臣の職は慰留した。宝亀2年に再び辞職を願い出て許された。それ以後の生活については何も伝わっておらず、宝亀6年に薨去する。
28行目:
* 霊亀2年([[716年]])8月20日、[[遣唐使]]に付随し、留学生となる。翌年3月、難波を発す。
* 天平7年([[735年]])3月、帰朝。時に、[[従六位#従八位|従八位下]]。同年、[[正六位下]]に昇叙。さらに、[[大学寮|大学助]]に[[任官]]。
* 天平8年([[736年]])正月21日、[[外位|外従五位下]]に昇叙。月日不詳。[[中宮職|中宮亮]]に[[任官]]
* 天平9年([[737年]])2月14日、[[従五位下]]に昇叙。同年([[738年]])12月27日、[[従五位上]]に昇叙。その後、月日不明、右衛士督を兼任。
* 天平12年([[740年]])11月21日、[[正五位下]]に昇叙。
* 天平13年([[741年]])7月3日、[[東宮学士]]に[[任官]]
* 天平15年([[743年]])5月5日、[[従四位下]]に昇叙。6月30日、[[春宮坊|春宮大夫]]に転任。東宮学士元の如し。
* 天平18年([[746年]])10月19日、下道([[臣]]、[[朝臣]])真備。[[吉備氏|吉備の氏]]と[[朝臣]]の姓を給い、吉備朝臣真備と変わる。以後、吉備真備と称す。
* 天平19年([[747年]])3月、春宮大夫・東宮学士退任。11月4日、[[京職|右京大夫]]に[[任官]]
* 天平勝宝元年([[749年]])7月2日、[[従四位上]]に昇叙。
* 天平勝宝2年([[750年]])正月10日、[[筑前国|筑前守]]に遷任。後に[[肥前国|肥前守]]に遷任。
40行目:
* 天平勝宝4年([[752年]])閏3月3日、[[遣唐使]]出発。
* 天平勝宝5年([[753年]])12月7日、唐より帰国の遣唐副使吉備真備ら一行の船が、紀伊国牟漏崎に漂着する<ref>[[http://www.city.shingu.lg.jp/div/bunka-1/htm/kumanogaku/kumanogaku/history/chronologicaltable1/index.html 新宮市HP熊野学、熊野の歴史/略年表(古代)]]</ref>。
* 天平勝宝6年([[754年]])3月、[[遣唐使]]帰朝。4月5日、[[大宰帥|大宰大弐]]に転任。4月7日、[[正四位下]]に昇叙。[[大宰帥|大宰大弐]]元の如し。
* 天平宝字5年([[761年]])11月17日、西海道節度使兼帯。
* 天平宝字8年([[764年]])正月21日、造東大寺長官に異動。9月11日、[[従三位]]に昇叙し、[[勲等|勲二等]]に叙勲、また、[[参議]]に補任。中衛大将を兼帯。
* 天平神護2年([[766年]])正月8日、[[中納言]]に転任。3月12日、[[大納言]]に転任。10月20日、[[従二位]]に昇叙し、[[右大臣]]に転任。中衛大将元の如し。[[備中国]][[下道郡]][[大領]]を兼任。
* 神護景雲3年([[769年]])2月、[[正二位]]に昇叙。[[右大臣]]・中衛大将元の如し。
* 神護景雲4年([[770年]])10月8日、中衛大将を辞す。
* 宝亀2年([[771年]])3月、[[右大臣]]辞任。
* 宝亀6年([[775年]])10月2日、薨去。
 
58行目:
碁に関しても、日本に初めて持ち帰ったとされる伝承があるが、[[魏志倭人伝]]に碁と双六が齎されたことが記載されており事実ではない。
 
また、吉備真備は、[[陰陽道]]の聖典『[[ほき内伝|金烏玉兎集]]』を唐から持ち帰り、[[常陸国]][[筑波山|筑波山麓]]で[[阿倍仲麻呂]]の子孫に伝えようとしたという。金烏は日(太陽)、玉兎は月のことで「陰陽」を表す。[[安倍晴明]]は、阿部仲麻呂の一族の子孫とされるが、『金烏玉兎集』は晴明が用いた陰陽道の秘伝書として、[[鎌倉時代]]末期か[[室町時代]]初期に作られた書とみられている。伝説によると、中国の伯道上人という[[仙人]]が、[[文殊菩薩]]に弟子入りをして[[悟り]]を開いた。このときに文殊菩薩から授けられたという秘伝書『文殊結集仏暦経』を中国に持ち帰ったが、その書が『金烏玉兎集』であるという。その他、『[[今昔物語集]]』では、[[玄昉]]を殺害した[[藤原広嗣]]の霊を真備が陰陽道の術で鎮めたとし、『刃辛抄』では、陰陽書『刃辛内伝』を持ち来たらしたとして、真備を日本の[[陰陽道]]の祖としている。
 
『[[宇治拾遺物語]]』では、他人の夢を盗んで自分のものとし、そのために右大臣まで登ったという説話もある。
109行目:
[[Category:8世紀の学者]]
[[Category:陰陽道]]
[[categoryCategory:日本の神 (人物神)]]
[[Category:岡山県の歴史]]
[[categoryCategory:倉敷市の歴史]]
[[Category:備中国の人物]]
[[Category:695年生]]