「明治天皇と日露大戦争」の版間の差分

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新東宝の上映館は数が少なかったため、[[松竹映配]]に依頼して上映館を増やしたが、都内では[[新宿オデヲン座]]、池袋・[[文芸座]]、[[目黒ライオン劇場]]といった2流、3流の映画館ばかりでの上映だった。それが映画興行史上の大記録を打ち立てたのである。上映した全ての映画館はすし詰めの超満員となった。客席ぐるりをラッシュアワー並の立ち見客が囲み、中央通路や最前列前の通路まで隙間無く床に座る観客、ロビーにまで人があふれ、上映が始まってもドアが閉められないほどだった。
 
観客動員数は2000万人、「日本人の5人に1人が見た」と言われ、日本の映画興行史上の大記録を打ち立てた<ref>同記録は、44年後の[[2001年]]、『[[千と千尋の神隠し]]』の2300万人に 1位の座を明け渡した。</ref>。[[配給収入]]5億7千万円は、封切映画の入場料150円の時代の大記録であった<ref>興収における同記録は、年々物価が上昇し、入場料金が4倍になった11年後の[[1968年]]、『[[黒部の太陽]]』がその記録を抜いた。</ref>。日本語版のまま封切られた[[台湾]]でも、同地で公開された日本映画<!--邦画-->史上最大の観客動員数を記録している。ただし、その後わずか4年で新東宝が倒産したことから、同社の数年分の利益を一挙に叩き出したかのようなこれらの数字の信憑性には疑問の声もある。{{独自研究範囲|観客動員数に入場料をかけて単純興行収入とすると、その20パーセント未満しか配給収入に計上されていないことになり(通常は40~50%)、松竹映配とのマージン契約、割引など様々な要因で見かけほどの恩恵を新東宝にもたらさなかったことも考え得る。|date=2013年3月}}
 
{{独自研究範囲|まだまだ敗戦の哀しみを引きずっていた時代である。観客は、総天然色・シネスコ大画面いっぱいに映し出された、子供の頃教科書や絵本で見た日露戦争の大パノラマに涙すると同時に、世界の大国に勝利した日本人の誇りと自信を取り戻していった。|date=2013年3月}}
 
映画に、アラカン嵐寛寿郎演じる明治天皇が登場すると思わず手を合わせる人も多かったという。その結果、姉妹篇である『[[天皇・皇后と日清戦争]]』(新東宝、[[1958年]])や『[[明治大帝と乃木将軍]]』(新東宝、[[1959年]])のほか、事実上その総集編である『[[明治大帝御一代記]]』([[大蔵映画]]、[[1964年]])まで作られた。嵐寛寿郎は、『[[日本ロマンス旅行]]』(新東宝、[[1959年]])で[[仁徳天皇]]を、『[[皇室と戦争とわが民族]]』(新東宝、[[1960年]])で[[神武天皇]]を演じている。
 
批判を恐れず大胆な企画を実現させた点で、[[新東宝]]社長就任2年目、[[大蔵貢]]の手腕が認められたが、この桁外れの大ヒットが同社における大蔵のワンマン体制を加速させた。
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*作家・[[中野重治]]は、自著『甲乙丙丁』の中で、自宅の桜の枝がスタッフによって伐られて、この映画の背景に使われたと記録している。
*嵐寛寿郎は前代未聞の明治天皇役をどう演じるか悩んでいた。その姿を見た大蔵は一計を案じ、嵐が撮影所に来る時には[[ハイヤー]]で送迎し、ハイヤーが新東宝撮影所に到着すると大蔵以下新東宝の重役、スタッフが勢揃いして出迎えし「陛下のおなり」と呼び合うことを日課とした。嵐は後年、[[日本放送協会|NHK]]の対談番組でこの日課により「自分が本当に天皇陛下になった気分がした」と述懐している。<ref>[[NHK教育テレビジョン]]『映像ファイル [[あの人に会いたい]]』2006年9月17日放送『嵐寛寿郎』内の本人インタビュー(1970年代に収録・放映されたもの)より。</ref>
* 戦艦[[三笠 (戦艦)|三笠]]と[[クニャージ・スワロフ (戦艦)|クニャージ・スワロフ]]のミニチュアには主砲が自動射撃出来る精巧なものが使用された<ref>{{Cite |和書 |title = 日本特撮・幻想映画全集 |pages = 74 |date = 1997 |publisher = [[勁文社]] |isbn = 4766927060 |ref = harv }}</ref>。
 
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