「明治天皇と日露大戦争」の版間の差分
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新東宝の上映館は数が少なかったため、[[松竹映配]]に依頼して上映館を増やしたが、都内では[[新宿オデヲン座]]、池袋・[[文芸座]]、[[目黒ライオン劇場]]といった2流、3流の映画館ばかりでの上映だった。それが映画興行史上の大記録を打ち立てたのである。上映した全ての映画館はすし詰めの超満員となった。客席ぐるりをラッシュアワー並の立ち見客が囲み、中央通路や最前列前の通路まで隙間無く床に座る観客、ロビーにまで人があふれ、上映が始まってもドアが閉められないほどだった。
観客動員数は2000万人、「日本人の5人に1人が見た」と言われ、日本の映画興行史上の大記録を打ち立てた
{{独自研究範囲|まだまだ敗戦の哀しみを引きずっていた時代である。観客は、総天然色・シネスコ大画面いっぱいに映し出された、子供の頃教科書や絵本で見た日露戦争の大パノラマに涙すると同時に、世界の大国に勝利した日本人の誇りと自信を取り戻していった。|date=2013年3月}}
映画に、
批判を恐れず大胆な企画を実現させた点で、[[新東宝]]社長就任2年目、[[大蔵貢]]の手腕が認められたが、この桁外れの大ヒットが同社における大蔵のワンマン体制を加速させた。
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*作家・[[中野重治]]は、自著『甲乙丙丁』の中で、自宅の桜の枝がスタッフによって伐られて、この映画の背景に使われたと記録している。
*嵐寛寿郎は前代未聞の明治天皇役をどう演じるか悩んでいた。その姿を見た大蔵は一計を案じ、嵐が撮影所に来る時には[[ハイヤー]]で送迎し、ハイヤーが新東宝撮影所に到着すると大蔵以下新東宝の重役、スタッフが勢揃いして出迎えし「陛下のおなり」と呼び合うことを日課とした。嵐は後年、[[日本放送協会|NHK]]の対談番組でこの日課により「自分が本当に天皇陛下になった気分がした」と述懐している。<ref>[[NHK教育テレビジョン]]『映像ファイル [[あの人に会いたい]]』2006年9月17日放送『嵐寛寿郎』内の本人インタビュー(1970年代に収録・放映されたもの)より。</ref>
* 戦艦[[三笠 (戦艦)|三笠]]と[[クニャージ・スワロフ (戦艦)|クニャージ・スワロフ]]のミニチュアには主砲が自動射撃出来る精巧なものが使用された<ref>{{Cite |和書 |title = 日本特撮・幻想映画全集 |pages = 74 |date = 1997 |publisher = [[勁文社]] |isbn = 4766927060 |ref = harv }}</ref>。
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