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'''鍋島 茂里'''(なべしま しげさと) / '''石井 茂里'''(いしい しげさと)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[江戸時代]]初期にかけての[[武将]]。[[肥前国|肥前]][[佐賀藩]]の重臣。[[横岳鍋島家]](鍋島主水家)初代。[[龍造寺隆信]]の[[旗本]][[石井信忠 (安芸守)|石井安芸守信忠]]の長男。
 
== 生涯 ==
龍造寺隆信の重臣石井信忠の長男として生まれる。母は大宝院(石井忠俊娘)。弟に[[鍋島茂賢]](石井孫六)がいる。母の大宝院は[[鍋島直茂]]の正室[[陽泰院]]([[石井常延]]次女)の姪である。
 
天正7年([[1579年]])茂里は、男子に恵まれなかった鍋島直茂・陽泰院夫妻に、器量を見込まれてその養子となり、直茂が前室との間に儲けた長女伊勢龍姫(月窓院)を娶る。直茂の嫡男[[鍋島勝茂|勝茂]]が生まれる以前は、茂里が鍋島家の継嗣世子定められた。
 
しかし翌年、直茂夫妻に嫡男[[鍋島勝茂|勝茂]]が誕生したため、その後世子を辞して、肥前国神埼郡西郷村に物成3千石を与えられ、家(横岳鍋島家/鍋島主水家)を立てた。天正12年([[1584年]])の[[沖田畷の戦い]]では、養父直茂に従って初陣を飾るも、龍造寺軍の敗北により、直茂とともに退却。そのとき敗戦に動ぜず、勇ましい戦い振りであったので、直茂は鍋島軍の先鋒は茂里がつとめることを決める。
 
さらに[[文禄・慶長の役]]では、一軍を率いて[[朝鮮]]へ渡海。直茂・勝茂父子を輔弼し、大いに功績があった。各大名が朝鮮側の軍船拿捕を競ったが、鍋島軍は遅れをとったため、茂里は「太閤殿下に報告の際、我が軍が遅れをとったようにみられては、父直茂・弟勝茂の面目が立たぬ」と奔走し、多数の軍船をかき集めたきた逸話が残る。[[関ヶ原の戦い]]後の柳川の戦いでも、軍略の立案から先鋒までを茂里が担当し、直茂・勝茂父子の信任を得た。勝茂は茂里を兄と呼んで慕った。
 
長男・[[鍋島茂宗]]、次男・三四郎(犬塚家養子)、長女・瑞光院([[龍造寺高房]]正室)、次女・於仁王([[小城藩]]主[[鍋島元茂]]正室)がいた。