「阿部正弘」の版間の差分

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天保14年([[1843年]])[[閏]]9月11日、25歳で老中となり、辰の口([[千代田区]]大手町)の屋敷へ移った。天保15年([[1844年]])5月に[[江戸城]]本丸焼失事件が起こり、さらに外国問題の紛糾などから[[水野忠邦]]が老中首座に復帰する。しかし阿部は一度罷免された水野が復帰するのに反対し、家慶に対して将軍の権威と沽券を傷つけるものだと諫言したという。水野が復帰すると、[[天保の改革|天保改革]]時代に不正などを行っていた[[町奉行|江戸南町奉行]]・[[鳥居耀蔵]]や[[後藤三右衛門]]、[[渋川敬直]]らを処分し(後任の南町奉行には元北町奉行[[遠山景元]]が就任)、さらに[[弘化]]2年([[1845年]])9月には老中首座であった水野忠邦をも天保の改革の際の不正を理由に罷免させ、後任の老中首座となる。
 
正弘は家慶、[[徳川家定|家定]]の2代の将軍の時代に幕政を統括した。[[嘉永]]5年([[1852年]])には、[[江戸城]]西の丸造営を指揮した功により1万石が加増される。老中在任中には、度重なる外国船の来航や中国での[[アヘン戦争]]勃発など対外的脅威が深刻化したため、その対応に追われた。
 
幕政においては、弘化2年(1845年)から[[海岸防禦御用掛]](海防掛)を設置して外交・国防問題に当たらせた。また、[[薩摩藩]]の[[島津斉彬]]や[[水戸越前藩]]の[[徳川斉昭松平春嶽]]など諸大名から幅広く意見を求め、[[水戸藩]]の[[徳川斉昭]]を海防掛[[参与]]に推挙した。[[筒井政憲]]、[[戸田氏栄]]、[[松平近直]]、[[川路聖謨]]、[[井上清直]]、[[水野忠徳]]、[[江川英龍]]、[[ジョン万次郎]]、[[岩瀬忠震]]など大胆な人材登用を行った。
 
さらに人材育成のため、嘉永6年([[1853年]])には自らが治める[[備後福山藩]]の藩校「[[弘道館 (備後福山藩)|弘道館]]」(当時は新学館)を「[[誠之館]]」に改め、身分にかかわらず教育を行った。ただ、藩政を顧みることはほとんどなく、藩財政は火の車であった。嘉永5年(1852年)から加増された1万石も、ほとんどを誠之館に注ぎ込んだといわれる。
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[[弘化]]3年([[1846年]])、[[アメリカ合衆国|アメリカ]][[東インド艦隊 (アメリカ海軍)|東インド艦隊]]司令官[[ジェームズ・ビドル]]が[[相模国]][[浦賀]]([[神奈川県]])へ来航して通商を求めたが、正弘は[[鎖国]]を理由に拒絶した。7年後の嘉永6年([[1853年]])には[[マシュー・ペリー]]率いる東インド艦隊がアメリカ大統領[[ミラード・フィルモア|フィルモア]]の親書を携えて浦賀へ来航した。同年7月には[[長崎港|長崎]]に[[ロシア帝国|ロシア]]の[[エフィム・プチャーチン|プチャーチン]]率いる艦隊も来航して通商を求めた。
 
この国難を乗り切るため、{{要出典|=正弘は[[朝廷]]を始め、[[外様大名]]を含む諸大名や市井からも意見を募った|date=2013年3月}}が、結局有効な対策を打ち出せず、時間だけが経過した。またなお正弘自身は[[松平春嶽|松平慶永異国船打払令]]や島津斉彬ら意見により復活をたびたび諮問しているが徳川斉昭をいずれも海防掛参与の反対任命より断念たことなどが諸大名の幕政への介入の原因となり、結果的に幕府の権威を弱めていことにもなった
 
なお、正弘自身は[[異国船打払令]]の復活をたびたび諮問しているが、いずれも海防掛の反対により断念している。ただし、これは正弘の真意ではなく斉昭ら攘夷派の不満を逸らす目的であったとの見方もある。
 
=== 安政の改革、晩年 ===