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'''ナルシソ・イエペス'''('''Narciso(Narciso Yepes''', [[1927年]][[11月14日]] - [[1997年]][[5月3日]])本名ナルシソ・ガルシア・イエペス[[スペイン]]の[[ギタリスト]]、[[作曲家]]。
 
== 来歴 ==
 
[[スペイン]]の[[ムルシア州|ムルシア地方]]の[[ロルカ]]近郊の農家に生まれた。4歳の時に初めてギターに触れ、ロルカの音楽アカデミーでギターを学び、その後バレンシア音楽院に進んでギターや作曲を学んだ。ここで、作曲家のビセンテ・アセンシオ教授に大きな影響を受ける。また、マドリード音楽院では、サインス・デ・ラ・マーサにギターを師事した。
 
[[1947年]][[12月17日]]スペイン劇場での[[スペイン国立管弦楽団]]の定演コンサートに名指揮者[[アタウルフォ・アルヘンタ]]により招かれ、[[ホアキン・ロドリーゴ|ロドリーゴ]]の[[アランフエス協奏曲]]を演奏した。その後に行われた[[パリ]]や[[ジュネーヴ]]などでの演奏会の成功で、イエペスの名はヨーロッパ中に知れ渡った。
 
[[1950年]]から3年間、演奏法をバイオリンの[[ジョルジェ・エネスク|ジョルジュ・エネスコ]]、ピアノの[[ヴァルター・ギーゼキング|ワルター・ギーゼキング]]に学んでいる。エネスコからは、作品の内部に踏み込んで分析する方法と、創造的な演奏、大胆で忠実な演奏の術を教わり、ギーゼキングからは、その豊かな器量、音色に関する繊細な感性力、そして直感力、楽譜を前にしての厳格さ、誠実さ、謙虚さを学んだ。両巨匠の晩年に当たり、特にエネスコは病気がちであったことから、折にふれてアドバイスを受けていたものと思われる。
 
[[1952年]]に、パリのカフェで映画監督の[[ルネ・クレマン]]と偶然知り合い、「映画自体はすでに撮ってあるがどんな音楽をつけたらよいか決めかねているので、映画のための音楽を担当してほしい」と監督から依頼を受ける。
当初、[[アンドレス・セゴビア]]に音楽を担当してもらう予定だったが、すでに映画制作の為の予算を使い果たしており、セゴビアとは制作費の折り合いがつかず、当時まだ新人であったイエペスに音楽担当の依頼をする事となった。 そこで、24歳のイエペスは映画[[禁じられた遊び]]の音楽の編曲・構成、演奏を1本のギターだけで行った。そして、その映画が公開されると、メインテーマ曲「'''[[愛のロマンス]]'''」が大ヒットし、世界的に有名なギタリストとなった。
それから世界各地でリサイタルやオーケストラとの共演を行い、日本にも[[1960年]]から[[1996年]]までの間に計17回訪問した。
 
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イエペスの信念である「芸術は神のほほえみである」の名のもとに10弦ギターで世界各地を演奏活動して回ったことにより、日本はもとより全世界で圧倒的な人気を誇り、なお且つ世界各地に及ぼした音楽的影響の高さはひときわ抜きん出ていた。
 
レパートリーの広さ([[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ|バッハ]]のリュート組曲における[[リュート|バロック・リュート]]の演奏、[[テレサ・ベルガンサ]]との歌の伴奏、世界各地のオーケーストラとのギターコンチェルトによる共演、[[フェルナンド・ソル]]の練習曲集の演奏、カタルーニャ地方の民謡を集めた曲集の演奏、ラテン系の近代・現代の作曲家の作品の10弦ギターによる演奏、弟子のモンダンとの二重奏、「トリオ・イエペス」による親子の共演等 )も、来日回数も、他の追随を許さぬものがあり、年間120回にもおよぶ演奏会を30年近く世界各地で行い、今までに録音したレコードの枚数も50枚を超えた(1967年から1989年までは[[ドイツ・グラモフォン]]専属となった)
(1967年から1989年までは[[ドイツ・グラモフォン]]専属となった。)
 
イエペスは心底からスペインの音楽家であった。その本領は20世紀のスペイン音楽にあった。それは、[[イサーク・アルベニス]]や[[エンリケ・グラナドス]]の音楽(すなわち編曲もの)を除いて、大半がギターのオリジナル作品によって占められていた。