「インディアン戦争」の版間の差分

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=== テクムセ、クリーク戦争および米英戦争 ===
[[画像:Tecumseh.jpeg|thumb|テクムセ]]
アメリカ合衆国はグリーンビル条約の後も次々とインディアンの土地の権利を奪っていったので、インディアン社会では大きな脅威となっていた。[[1800年]]インディアナ準州知事に[[ウィリアム・ハリソン]]が就任し、[[トーマス・ジェファーソン]][[アメリカ合衆国大統領|大統領]]の指示で、インディアンの土地取得を加速させることになった。ショーニー族の兄弟[[テクムセ]]と[[{{仮リンク|テンスクワタワ]]|en|Tenskwatawa}}は合衆国の拡張に対する抵抗を呼びかけた。テクムセの目的はインディアン達が土地を売ることを止めさせることだった。
 
テクムセが南部に行って、クリーク族、チェロキー族および[[チョクトー]]族の中で同盟者を募っている間に、ハリソンはインディアン同盟に戦いを挑み、[[1811年]]の[[テカムセの戦争#ティッペカヌーの戦い|ティッペカヌーの戦い]]でテンスカタワたちを打ち破った。合衆国はこの勝利で武力による抵抗が収まることを期待したが、テクムセたちはイギリス軍と同盟して、[[米英戦争]]の中で合衆国に対する戦いを始めた。
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=== 西部のインディアン戦争年譜 ===
* {{仮リンク|コマンチ戦争|en|Comanche Wars}} (1836-1875) 南部平原、主に[[テキサス共和国]]と[[テキサス州]]([[テキサスのインディアン戦争]]を参照)
* {{仮リンク|カイユース戦争|en|Cayuse War}} (1848-1855) [[オレゴン準州]]-[[ワシントン準州]]
* {{仮リンク|ロウグ川戦争|en|Rogue River Wars}} (1855-1856) オレゴン準州
* {{仮リンク|マ戦争|en|Yakima War}} (1855-1858) ワシントン準州
** [[:en:Puget Sound War|Puget Sound War]]
* スポーケン=クーダレン=パルーズ戦争 (1858) ワシントン準州
** {{仮リンク|クーダレン戦争|en|Coeur d'Alene War}} (1858) ワシントン準州<!-- スポーケン=クーダレン=パルーズ戦争 -->
* フレーザー・キャニオン戦争 (1858) [[ブリティッシュコロンビア州]]
** {{仮リンク|パインクリークの戦い|en|Battle of Pine Creek}} (1858)
* {{仮リンク|フレーザー・キャニオン戦争|en|Fraser Canyon War}} (1858) [[ブリティッシュコロンビア州]]
* カリフォルニア・インディアン戦争 (1860-65) [[フーパ族]]、[[ウィヨット族]]、[[ユロク族]]、[[トロワ族]]、[[ノムラキ族]]、[[チマリコ族]]、[[ツヌングウェ族]]、[[ホィルクート族]]、[[カルク族]]、[[ウィントン族]]その他に対する戦い
* ラマルチャ戦争 (1863) ブリティッシュコロンビア州
* {{仮リンク|チルコティン戦争|en|Chilcotin War}} (1864) ブリティッシュコロンビア州
* {{仮リンク|ナバホ戦争|en|Navajo Wars}} (1861-1864) [[ロング・ウォーク・オブ・ナバホ]]で終了。[[アリゾナ準州]]、[[ニューメキシコ準州]]
** [[ロング・ウォーク・オブ・ナバホ]]で終了。
** [[:en:Black Hawk War (1865–1872)]]
* フアラパイまたはワラパイズ戦争 (1864-1869) アリゾナ準州
* アパッチ作戦または[[アパッチ戦争]] (1864-1886) カールトン将軍がナバホ族とともにメスカレロ・[[アパッチ族]]をサムナー保留地に強制移住させたもの。[[ジェロニモ]]が降伏した1886年まで継続
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* [[コロラド戦争]] (1864-1865) コロラド東部平原を中心としてアメリカ軍と、[[シャイアン族]]と[[アラパホ|アラパホー族]]の連合軍が衝突
* [[サンドクリークの虐殺]] [[ジョン・チヴィントン]]が降伏したシャイアン族とアラパホー族450名以上を殺害
* {{仮リンク|コマンチ作戦|en|Comanche Campaign}} (1867-1875) ミズーリ方面軍の指揮官[[フィリップ・シェリダン]]少将が1868年から69年の冬季作戦行動を指揮。[[コロラド州]]、[[カンザス州]]、[[ニューメキシコ州]]およびテキサス州の境界地域に散在する[[コマンチ族]]や[[カイオワ族]]などのインディアン部族の掃討を目論んだもの<ref>"Named Campaigns &mdash; Indian Wars."</ref> 。シェリダンの有名な暴言「良いインディアンとは、死んだインディアンのことだ」はこの時生まれた。
** {{仮リンク|ビーチャー・アイランドの戦い|en|Battle of Beecher Island}} (1868) 北部シャイアン族の戦士ローマン・ノーズがアメリカ第9騎兵隊の斥候と9日間戦った。
** [[ウォシタ川の戦い|ウォシタ川の虐殺]] (1868) ジョージ・アームストロング・カスターの第7騎兵隊がウォシタ川沿いのブラック・ケトルの無抵抗のシャイアン族キャンプを奇襲攻撃。250名の男女、子供が殺された。
** {{仮リンク|サミット・スプリングスの戦い|en|Battle of Summit Springs}} (1869) トール・ブルに率いられたシャイアン族が、ユージーン・A・カー大佐指揮のアメリカ軍に敗北。トール・ブルは[[バッファロー・ビル|バッファロー・ビル・コディ]]に殺されたと伝えられている。
** [[:en:Battle of Salt Creek]]
** {{仮リンク|パロ・デュロ峡谷の戦い|en|Battle of Palo Duro Canyon}} (1874) シャイアン族、コマンチ族およびカイオワ族の戦士が、[[ラナルド・S・マッケンジー]]指揮する第4騎兵隊と交戦
* [[モードック戦争]]またはモードック作戦 (1872-1873) [[キエントプース]]酋長(通称キャプテン・ジャック)や53名のモードック族戦士が溶岩石の荒地に立てこもり、1000名の米軍兵士を7か月間手こずらせた。エドワード・キャンビー将軍が和平調停中に殺され、インディアン戦争で殺された唯一の将軍となった。キエントプースは絞首刑となり、家族の懇願も無視されて、その死体は有料の見世物にされた。
** {{仮リンク|レッドリバー戦争|en|Red River War}} (1874-1875) [[ウィリアム・シャーマン]]およびフィリップ・シェリダン中将指揮下の合衆国軍とコマンチ族の戦い
* [[モードック戦争]]またはモードック作戦 (1872-1873) [[{{仮リンク|キエントプース]]|en|Kintpuash}}酋長(通称キャプテン・ジャック)や53名のモードック族戦士が溶岩石の荒地に立てこもり、1000名の米軍兵士を7か月間手こずらせた。{{仮リンク|エドワード・キャンビー|en|Edward Canby}}将軍が和平調停中に殺され、インディアン戦争で殺された唯一の将軍となった。キエントプースは絞首刑となり、家族の懇願も無視されて、その死体は有料の見世物にされた。
* [[ブラックヒルズ戦争]]またはリトルビッグホーン作戦 (1876-1877) [[シッティング・ブル]]や[[クレイジー・ホース]]たちスー族が、ララミー条約の違反に抗議し、合衆国軍と戦った。
* {{仮リンク|ローズバッドの戦い|en|Battle of the Rosebud}} (1876) クレイジー・ホースたちスー族が、カスターの第7騎兵隊を支援するために移動中のアメリカ軍と交戦。
* [[リトルビッグホーンの戦い]] (1876) クレイジー・ホースたちスー族とシャイアン族、アラパホー族が、カスターの第7騎兵隊から奇襲を受け、これを撃退全滅させた。
* ネ・ペルセ作戦または{{仮リンク|ネ・ペルセ戦争|en|Nez Perce War}} (1877) ネ・ペルセ作戦とも。ジョセフ酋長指揮下の南[[ネズ・パース|ネ・ペルセ族]]が1877年、保留地への強制移住を拒んで、第1騎兵隊の攻撃を避けてアイダホ、イエローストーンおよびモンタナを通ってカナダへの逃亡を試みたもの。これを合衆国軍が追跡攻撃した。
* {{仮リノッ作戦または|バンノック戦争|en|Bannock War}} (1878) バンノック作戦とも。土地の分配に不満を持ったアイダホ州南部の[[バンノック族]]および[[パイユート族]]が1878年に、アメリカ第21歩兵連隊、第4砲兵連隊および第1騎兵隊と交戦したもの。
* シャイア{{仮リ作戦またはク|シャイアン戦争|en|Northern Cheyenne Exodus}} (1878-1879) シャイアン作戦とも。アメリカ武装軍と小規模[[シャイアン族]]との戦い
* {{仮リンク|シープイーター作戦またはシープーターンディアン戦争|en|Sheepeater Indian War}}(1879年5月-8月)1879)シープ・イーター作戦とも。1879年5月1日、3個中隊がアイダホ州中央部で[[ショーショーニー族]]を追跡襲撃したもの。[[太平洋岸北西部]]では最後の作戦
* ユート作戦またはユート戦争(1879年9月-1880年11月)1879年9月29日、T・T・ソーンバーグ少佐指揮下の第4歩兵連隊とだ5騎兵隊の一部200名がレッド峡谷で300名ないし400名の[[ユト|ユート族]]戦士に攻撃され包囲された。ソーンバーグ隊は10月早くに第5騎兵隊と第9騎兵連隊に救出されたが、大きな損失を被った。ユート族は1880年11月に和平に応じた。
* パイン・リッジ作戦(1890年11月-1891年1月)スー族に最終的な保留地受け入れを迫った、最後の大規模戦闘となった。アメリカ正規軍の約半分に相当する歩兵と騎兵を投入した。残ったインディアン戦士は武器を置き、1891年1月に保留地に入った。
** [[ウーンデッド・ニーの虐殺]](1890年12月29日)シッティング・ブルの腹違いの兄弟シハ・タンカ(ビッグフット)酋長や約200名のスー族が騎兵隊に殺された。14日前に、シッティング・ブルは、アメリカ政府が彼を逮捕するために派遣したインディアン警察の集団の奇襲を受け、スタンディング・ロック管理所そばのキャンプでインディアン警官に殺されていた。
 
== 最後の戦い (1898年-1917年) ==