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戦国七雄のうち、巨大な[[秦]]以外の[[六国]]が縦(たて、従)に同盟し、共同戦線で秦に対抗しようというのが合従説である。
 
その最大規模のものが[[縦横家]]の[[蘇秦]]によるもので、史記によると彼は[[鬼谷子|鬼谷]]先生に師事した後に母国に帰ったときすっかり貧乏であったため、兄の嫁や妻からさえ馬鹿にされた。このため、一念発起してこれに取り組んだという。彼はまず[[燕 (春秋)|燕]]の文候に各国をとりまとめて秦に対することを説き、承諾を得ると[[趙 (戦国)|趙]]、[[韓 (戦国)|韓]]、[[魏 (戦国)|魏]]、[[斉 (戦国)|斉]]、[[楚 (春秋)|楚]]と各国を言葉巧みに説き伏せ、六国の合従を成立させたとされる<ref>この蘇秦の活躍は、史実とは矛盾するものが多いとの指摘がある。それによると実際には秦以外の六ヶ国が連盟した事実は存在しないし、司馬遷は「世間では蘇秦の異聞が多く、異なる時代の事件をみな蘇秦の事績に附会している」として、乏しい情報の中から蘇秦の事績の復元を試みたのだが、それに失敗したとされる。この説によると、[[紀元前288年]]に燕・斉・趙・韓・魏の五ヶ国が合従して秦を攻めたが、五ヶ国連合軍は退却した。次に[[紀元前284年]]には今度は燕・趙・魏・韓・秦の五ヶ国が合従して斉を攻撃している。蘇秦の時代は秦・斉の二大強国時代であり、蘇秦は燕のために諸国を糾合し斉を攻撃すべく活動した外交官・間者であった([[学研]]『[[歴史群像]]』 [[1997年]]2月号P44-45 合従連衡と蘇秦の正体)</ref>。このとき蘇秦は同盟の総長<ref>小川他(1975)はこれを[[国際連合事務総長|国連事務総長]]のようなものといっている。</ref>となり、六国の[[宰相]]をも兼ねた。[[蘇秦]]の後は[[蘇代]]などによって継承された。
 
秦以外の二ヶ国のみの場合も合従と呼び、[[屈原]]は、[[ (春秋)|楚]]の国内で[[田|斉]]との合従を唱える合従派であったことが知られている(彼は反秦派として『[[史記]]』に記述されている)。[[食客]][[毛遂]]が、[[ (戦国)|趙]]の[[平原君]]の使者として、楚に赴き、楚の[[頃襄王]]と合従した様子については平原君列伝に記載されている。
 
==連衡==