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'''カーティス・モンタギュー・シリング'''('''Curtis Montague Schilling''', [[1966年]][[11月14日]] - )は、[[メジャーリーグベースボールMLB]]の元選手。ポジションは[[投手]]。[[アメリカ合衆国]][[アラスカ州]][[アンカレッジ]]出身。
 
== 経歴 ==
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=== キャリア初期 ===
{{by|1986年}}1月の[[ドラフト会議 (MLB)|MLBドラフト]]で[[ボストン・レッドソックス]]から2巡目に指名を受け入団。{{by|1988年}}[[7月29日]]に[[マイク・ボディッカー]]との交換トレードで、[[ブレイディ・アンダーソン]]と共に[[ボルティモア・オリオールズ]]に移籍し、[[9月7日]]の古巣レッドソックス戦でメジャーデビュー。目立った数字成績は残せず、ブロンドの髪に青いラインを入れたため保守的な[[フランク・ロビンソン]]監督を怒らせた、ということ位でしか知られていない存在だった<ref name=slugger>Tyler Kepner / [[ニューヨーク・タイムズ|New York Times]] 「カート・シリング&ジョシュ・ベケットの師弟関係 "悪ガキ" から "エース" へ」 [[吉藤宗弘]]訳、『月刊スラッガー』99号、[[日本スポーツ企画出版社]]、2006年、雑誌15509-7、10-13頁。</ref>。{{by|1990年}}は6月末にメジャーに昇格。リリーフとして登板し初勝利も挙げるが、セーブ失敗が6度もあった。{{by|1991年}}[[1月10日]]に[[グレン・デービス|グレン・デイヴィス]]との交換トレードで、[[スティーヴ・フィンリー]]らと共に[[ヒューストン・アストロズ]]に移籍。オフに[[ロジャー・クレメンス]]から「君は時間を無駄にしている」と2時間に及ぶ大説教を受けた。今までのやり方ではダメだと気付き、それまでとは「全く違うアプローチ、視点、態度でゲームに臨む」ようになった<ref name=slugger/>。
 
=== フィラデルフィア・フィリーズ ===
{{by|1992年}}[[4月2日]]にトレードで[[フィラデルフィア・フィリーズ]]に移籍。当初はリリーフでの起用だったが、5月途中から先発に転向し、[[6月8日]]の[[ピッツバーグ・パイレーツ]]戦でメジャー初完封を記録。14勝11敗・防御率2.35、リーグトップのWHIP0.99を記録するなど飛躍。{{by|1993年}}は前半戦で5連敗を喫したが、終盤にかけて7連勝を記録するなど16勝7敗・防御率4.02・186奪三振を記録し、チームの地区優勝に大きく貢献。[[アトランタ・ブレース]]との[[1993年のナショナルリーグチャンピオンシップシリーズ|リーグチャンピオンシップシリーズ]]では第1戦と第5戦に先発し好投するが、共に[[クローザー]]の[[ミッチ・ウィリアムズ]]がセーブに失敗し勝利は付かなかった。チームは4勝2敗で13年ぶりのリーグ優勝を果たし、防御率1.69・19奪三振の活躍が評価されて[[リーグチャンピオンシップシリーズ最優秀選手|シリーズMVP]]に選出された。[[トロント・ブルージェイズ]]との[[1993年のワールドシリーズ|ワールドシリーズ]]では第1戦に先発し7失点で敗戦投手となるが、第5戦で5安打完封勝利を挙げる。しかし第6戦でウィリアムズが[[ジョー・カーター]]に逆転サヨナラの3点本塁打を浴び、2勝4敗で敗退した。ウィリアムズがマウンドにいる間、白いタオルで顔を覆う姿(これが更にチームメイトの不安を煽った)を何度もカメラに撮られるなど、終始落ち着かない様子だった。{{by|1994年}}は初の[[開幕投手]]を務めるが、勝利なしの7連敗と不調に陥り5月に離脱。7月下旬に復帰後は持ち直したものの[[メジャーリーグベースボール#ストライキ|ストライキ]]でシーズンが打ち切られ、2勝に終わった。{{by|1995年}}は開幕4連勝を記録するが、[[7月18日]]を最後に故障で離脱し、7勝に留まる。オフに[[フリーエージェント (プロスポーツ)|フリーエージェント]]となるが再契約。{{by|1996年}}は開幕に間に合わず、5月中旬に復帰。打線の援護がなく9勝10敗だったが防御率3.19、8・9月で2完封を含む7完投を記録するなどリーグ最多の8完投の成績で復活の兆しを見せた。
 
{{by|1997年}}は自身初の[[1997年のMLBオールスターゲーム|オールスターゲーム]]に選出される。[[9月1日]]の[[ニューヨーク・ヤンキース]]戦で自己最多の16奪三振を記録。17勝11敗・防御率2.97・319奪三振を記録し、[[最多奪三振]]のタイトルを獲得。[[サイ・ヤング賞]]の投票では4位に入った。{{by|1998年}}は15勝14敗・防御率3.25・300奪三振・共にリーグ最多の268.2イニング・15完投を記録し、2年連続で最多奪三振を獲得した。{{by|1999年}}は前半戦で13勝4敗・防御率3.13・7完投を記録し、3年連続で[[1999年のMLBオールスターゲーム|オールスターゲーム]]に選出されて先発投手を務めた。後半戦は故障もあって2勝に留まり、15勝6敗・防御率3.54の成績だった。自身の活躍とは裏腹にチームは低迷し、次第に不甲斐ないフロントへの不満を口にするようになった。{{by|2000年}}[[7月26日]]に[[ビセンテ・パディーヤ]]他3選手との交換トレードで[[アリゾナ・ダイヤモンドバックス]]に移籍。
 
=== アリゾナ・ダイヤモンドバックス ===
移籍後は途中5連敗もあったが、シーズン通算で11勝、リーグ最多の8完投を記録した。{{by|2001年}}は開幕5連勝を記録するなど6月までに12勝を挙げる。[[5月26日]]の[[サンディエゴ・パドレス]]戦では8回途中までパーフェクトに抑えたが、[[ベン・デイヴィス]]がバント安打で出塁し快挙を逃した<ref>この行為が「Unwritten Rules([[野球の不文律]])」を破ったとして騒動になった。</ref>。22勝6敗・防御率2.98・293奪三振、いずれもリーグ最多の256.2イニング・6完投・37被本塁打を記録し、[[最多勝利 (MLB)|最多勝]]のタイトルを獲得。チームメイトの[[ランディ・ジョンソン]]と合わせて43勝・665奪三振を記録し、チームの地区優勝の原動力となる。ポストシーズンでも活躍は続き、[[セントルイス・カーディナルス]]との[[2001年のナショナルリーグディビジョンシリーズ|ディヴィジョンシリーズ]]では第1戦に先発して3安打完封勝利、最終第5戦でも1失点完投勝利を挙げる。[[アトランタ・ブレー]]との[[2001年のナショナルリーグチャンピオンシップシリーズ|リーグチャンピオンシップシリーズ]]では第3戦で12奪三振で1失点完投勝利を挙げ、チームは球団創設4年目でリーグ優勝を果たす。[[ニューヨーク・ヤンキース]]との[[2001年のワールドシリーズ|ワールドシリーズ]]では第1戦に先発し、7回1失点で勝利投手。第4戦でも7回1失点と好投するが、クローザーの[[金炳賢]]がセーブに失敗し勝利は付かなかった。最終第7戦では6回まで無失点に抑えるが、その後リードを許し8回途中で降板。チームは9回裏に[[ルイス・ゴンザレス]]のサヨナラ安打で勝利し、史上最速の創設4年目でのワールドチャンピオンとなった。ジョンソンと共に[[ワールドシリーズ最優秀選手|シリーズMVP]]を受賞し、[[スポーツ・イラストレイテッド]]誌の2001年度 "スポーツマン・オブ・ザ・イヤー" にも選ばれた。サイ・ヤング賞の投票ではジョンソンに次ぐ2位。{{by|2002年}}[[4月7日]]の[[ミルウォーキー・ブルワーズ]]戦では自己最多で毎回の17三振を奪い1安打完封勝利。[[4月23日]]から9連勝を記録するなど前半戦で14勝を挙げ、[[2002年のMLBオールスターゲーム|オールスターゲーム]]で先発投手を務めた。終盤に打ち込まれたが、いずれもジョンソンに次ぐリーグ2位の23勝(7敗)・316奪三振・259.1イニングを記録し、チームは2年連続地区優勝。カーディナルスとの[[2002年のナショナルリーグディビジョンシリーズ|ディヴィジョンシリーズ]]では第2戦に先発して7回1失点と好投するが勝敗は付かず、チームは3連敗で敗退した。サイ・ヤング賞の投票では前年に続いてジョンソンに次ぐ2位に入る。{{by|2003年}}は[[虫垂炎]]を患い[[4月19日]]に手術、[[5月30日]]のパドレス戦で打球を右手に受けて骨折。7月に復帰後も左膝の痛みを抱えながらプレイする等故障に泣いた。6月末には審判技術向上のため導入されていた[[クエステック・システム]]の監視カメラを[[バット (野球)|バット]]で破壊。これは非難されるべき行為には違いないが、「あんなカメラに左右されるなんて、冗談じゃない。これまでストライクとコールされた球が、ボールになる。しかもスタジアムにカメラが有る無しでコールも変わる。最悪のシステムだ」という主張は、同システムに不満を感じていた一部のメジャーリーグ関係者から強い支持を集めた<ref>[[木本大志]] 「[http://sportsnavi.yahoo.co.jp/baseball/mlb/column/200306/0617kimo_01.html 『ICHIRO REPORT 3年目の真実』 VOL.7 Ques Tec System メジャーが導入を急ぐ判定監視システムとは?]」 『[http://sportsnavi.yahoo.co.jp/ スポーツナビ]』、2003年。</ref>。防御率2.95・194奪三振を記録したものの8勝9敗に終わった。オフに球団との契約延長交渉が財政難のため決裂し、球団は移籍を容認<ref name="maj200402a">[[ナガオ勝司]] 「カート・シリング/37歳エースの男気。」『[[月刊メジャー・リーグ]]』2004年2月号、[[ベースボールマガジン]]社、2004年、[[雑誌コード|雑誌]] 08625-2、8 - 13項。</ref>。当初はフィリーズかヤンキースへ移籍と言われたが、フィリーズ時代に絶大な信頼関係を築いた[[テリー・フランコーナ]]がレッドソックス新監督の有力候補となってからは事態が一転し<ref>[[嶋田剛司]] 「テリー・フランコーナ/新監督の十字架。」『[[月刊メジャー・リーグ]]』2004年2月号、[[ベースボールマガジン]]社、2004年、[[雑誌コード|雑誌]] 08625-2、20 - 23項。</ref><ref name="maj200402a"/>、[[11月28日]]に[[ブランドン・ライオン]]、[[ケイシー・フォッサム]]、[[ホルヘ・デラロサ]]他1選手との交換トレードで移籍。ダイヤモンドバックスとの契約が2004年まで残っていたが、{{by|2005年}}から2年2500万ドル(3年目は1300万ドルのオプション)で契約を延長した<ref name="maj200402a"/>。
 
=== ボストン・レッドソックス ===
移籍1年目の{{by|2004年}}は前半戦で11勝を挙げ、2年ぶりに[[2004年のMLBオールスターゲーム|オールスターゲーム]]に選出される。[[9月16日]]の[[タンパベイ・レイズ|タンパベイ・デヴィルレイズ]]戦で勝利投手となり、{{by|1978年}}の[[デニス・エカーズリー]]以来、球団史上5人目の入団初年度での20勝を達成。21勝6敗・防御率3.26・203奪三振を記録し、チームの[[ワイルドカード (スポーツ)|ワイルドカード]]獲得に貢献。[[ロサンゼルス・エンゼルス・オブ・アナハイム|アナハイム・エンゼルス]]との[[2004年のアメリカンリーグディビジョンシリーズ|ディヴィジョンシリーズ]]では第1戦に先発し勝利投手となるが、右足首の腱を断裂する怪我を負う。ヤンキースとの[[2004年のアメリカンリーグチャンピオンシップシリーズ|リーグチャンピオンシップシリーズ]]では第1戦に先発するが、痛みから本来の投球ができず、3回6失点で敗戦投手となる。球団の医療スタッフは、痛めた足首の周囲の皮膚を縫い付けて断裂した腱が動かないようにする[[応急処置]]を敢行する。当時の報道によればこのような処置はそれまで誰もやったことがなく、有効性を確かめるために医療解剖用の死体を使ってリハーサルを行ったという。第6戦では7回1失点と好投して勝利投手となり、史上初めて3連敗からタイに持ち込んだが、試合終盤には縫合部分から出血し、靴下が血に染まった。以後は先発の前日に足の皮膚を縫い合わせ、登板が終わったら抜糸、を繰り返した(縫い付けたままでは患部が化膿する恐れがあるため)<ref>{{Cite web|date=2004-10-20|url=http://www.redorbit.com/news/oddities/95850/cadaver_used_to_help_fix_schillings_ankle/|title=Cadaver used to help fix Schillings ankle|language=英語|accessdate=2008-05-13}}</ref>。チームは最終第7戦も勝利して18年ぶりのリーグ優勝を果たす。カーディナルスとの[[2004年のワールドシリーズ|ワールドシリーズ]]では第2戦に先発し、靴下を血に染めながら7回を4安打1失点と好投して勝利投手。チームは4連勝で{{by|1918年}}以来86年ぶりのワールドチャンピオンとなり、[[ボストン・レッドソックス#バンビーノの呪い|バンビーノの呪い]]を打ち破った。シリングの'''血染めのソックス'''は[[アメリカ野球殿堂|野球殿堂]]に展示されることになった。サイ・ヤング賞の投票では満票で受賞した[[ヨハン・サンタナ]]に次ぐ2位に入り、チーム全体でスポーツ・イラストレイテッド誌の2004年度スポーツマン・オブ・ザ・イヤーを受賞した。
 
{{by|2005年}}は前年の故障の影響で開幕に間に合わず、復帰後も不本意な投球で再び[[故障者リスト]]入り。7月に復帰した後はクローザーとして9セーブを記録し、8月下旬からは先発に戻る。チームは惜しくも地区優勝を逃すがワイルドカードを獲得。[[シカゴ・ホワイトソックス]]との[[2004年のアメリカンリーグディビジョンシリーズ|ディヴィジョンシリーズ]]では3連敗で敗退。第4戦で先発予定だったため登板機会は無かった。{{by|2006年}}は開幕から4試合で4勝・防御率1.61を記録し、引退が近いのではという声も退けた。[[5月27日]]のデヴィルレイズ戦で史上104人目の通算200勝を達成。[[8月30日]]の[[オークランド・アスレティックス]]戦では[[ニック・スウィッシャー]]から三振を奪い、通算[[3000奪三振クラブ|3000奪三振]]に到達。与四球1000以下での達成は[[ファーガソン・ジェンキンス]]、[[グレッグ・マダックス]]に次ぐ史上3人目となった。直後に故障で離脱するが15勝7敗・防御率3.97・183奪三振を記録した。{{by|2007年}}1月にデニス・アンド・カラハンというラジオ番組に出演し、2007年シーズンで引退する意思がないことを表明した。契約延長を申し出るも、球団は年齢、体調などを理由にシーズンの終了まで交渉を拒否。それに対し、球団が独占交渉権を持つワールドシリーズ終了後の15日間に交渉を行うつもりはないと発言した。{{by|2007年}}[[6月7日]]のアスレティックス戦では9回2死まで失策の走者1人に抑えるも、[[シャノン・スチュワート]]に95マイルの速球をライトへ打たれ、後一歩でノーヒットノーランを逃した。その後2度の先発で打ち込まれ、[[7月20日]]に肩のMRI検査を受けて故障者リスト入り。9勝に留まるが、チームは12年ぶりの地区優勝を果たす。エンゼルスとの[[2007年のアメリカンリーグディビジョンシリーズ|ディヴィジョンシリーズ]]では第3戦に先発し、7回無失点で勝利投手。[[クリーヴランド・インディアンズ]]との[[2007年のアメリカンリーグチャンピオンシップシリーズ|リーグチャンピオンシップシリーズ]]では第2戦に先発し5回途中5失点で降板するが、第6戦は7回2失点と好投して勝利投手となり、チームは3年ぶりのリーグ優勝。[[コロラド・ロッキーズ]]との[[2007年のワールドシリーズ|ワールドシリーズ]]では第3戦に先発し、6回途中1失点で勝利投手となり、3年ぶりのワールドチャンピオンに貢献した。
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=== 薬物使用勧誘告発 ===
2008年のレッドソックス在籍時に、球団関係者から禁止薬物の使用を勧められたとレッドソックスを告発した。シリング本人は手術を希望し、球団はリハビリすることを望んだが(先述)、その際にリハビリの一環として運動能力向上薬の使用を勧められたという<ref>http://www.sanspo.com/baseball/news/20130208/mlb13020815390003-n1.html</ref>事実を2013年2月7日に[[ESPN]]が報じた。結果的には禁止薬物の使用を断り<ref>http://www.sanspo.com/baseball/news/20130208/mlb13020815390003-n1.html</ref>手術を受けたが、復帰できずに引退となった。
 
結果的にシリングは禁止薬物の使用を断り<ref>http://www.sanspo.com/baseball/news/20130208/mlb13020815390003-n1.html</ref>、手術を受けたが復帰できずに引退となった。
 
== 選手としての特徴 ==