「ルイ・クープラン」の版間の差分

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==生涯==
[[Image:StGervais Fassade.JPG|thumb|left|200px|サン・ジェルヴェ教会]]
ルイ・クープランの生涯に関する情報は、主にティトン・デュ・ティエの''Le Parnasse François'' (1732年)の記述に依拠している。
ルイ・クープランは1626年頃、パリから南東に50kmほど離れたショーム・ザン・ブリで誕生した。ショームの戸籍簿は1626年1月1日から1632年10月14日までが(1632年2月の一部を除く)欠けているので正確な出生日は不明である。彼の父であるシャルル・クープランは小規模な地主で、オルガニストでもあった。1650年ないし51年の[[ヤコブ_(ゼベダイの子)|聖ヤコブ]]の日に、ルイ・クープランとその二人の弟フランソワとシャルル、そして何人かの友人達は、[[ジャック・シャンピオン・ド・シャンボニエール]]が近くの別荘にて饗宴を催しているところに訪れ、ルイ・クープランが作曲した音楽の演奏を披露した。シャンボニエールはルイ・クープランの才能を認め、パリに出ることを勧めた。手稿譜に記された日付から1651年8月12日にはルイ・クープランはパリにいたことが分かっている
 
1650年ないし51年の[[ヤコブ_(ゼベダイの子)|聖ヤコブ]]の日に、ルイ・クープランとその二人の弟フランソワとシャルル、そして何人かの友人達は、[[ジャック・シャンピオン・ド・シャンボニエール]]が近くの別荘にて饗宴を催しているところに訪れ、ルイ・クープランが作曲した音楽の演奏を披露した。シャンボニエールはルイ・クープランの才能を認め、自分と一緒にパリに来ることを勧めた。手稿譜に記された日付から1651年8月12日にはルイ・クープランはパリにいたことが分かっている。
1652年に当時パリを訪れていた[[ヨハン・ヤーコプ・フローベルガー]]と出会っていることは、ほぼ確実視される。ルイ・クープランの[[プレリュード]]の一つには「フローベルガー氏を模して à l'imitation de Mr. Froberger」という題名が付けられている<ref>この題名はパルヴィル手稿によって伝わる。ボアン手稿にも同じ作品が見られるが、特別な題名は付けられていない。</ref>。
 
1652年に当時パリを訪れていた[[ヨハン・ヤーコプ・フローベルガー]]と出会っがパリを訪れいることはおりほぼ確実視さルイ・クープランは彼の影響を受けたと考えられる。ルイ・クープランの[[プレリュード]]の一つには「フローベルガー氏を模して à l'imitation de Mr. Froberger」という題名が付けられている<ref>この題名はパルヴィル手稿によって伝わる。ボアン手稿にも同じ作品が見られるが、特別な題名は付けられていない。</ref>。
またフローベルガーのパリ滞在時に事故死した、[[リュート]]奏者のブランロシェ ([[:en:Charles Fleury]]) を追悼して、フローベルガーとルイ・クープランは両者とも[[トンボー (音楽)|トンボー]]を作曲している<ref>他に[[ドニ・ゴーティエ]]、[[フランソワ・デュフォー]]によるものが残されている</ref>。
 
1653年4月9日には、ルイ・クープランはパリのサン・ジェルヴェ教会のオルガニストに就任した。以後この地位はクープラン一族によって占められることになる。またルイ・クープランは宮廷楽団で、[[ヴィオラ・ダ・ガンバ|トレブル・ヴィオル]]の奏者も務めているが、これは彼が恩師であるシャンボニエールに対する敬意から、の占めていた宮廷[[チェンバロ#スピネット|クラヴサンスピネット]]奏者となることの地位を提供されたものの、恩師への忠義からそれを辞退したため、代わりに彼のために特別に設えられた地位であると言われている。1661年8月29日、35歳の若さでパリにて死去。
 
==作品==
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ルイ・クープランは音楽家としての活動期間が僅か10年程ということもあり、作品を生前に出版することは無かった。現在知られている作品は、3つの手稿譜によって伝えられている。
 
{{日本語版にない記事リンク|ボアン手稿|en|Bauyn manuscript}}は1690年頃に作成され、ルイ・クープランの作品として、122曲の[[チェンバロ|クラヴサン]]曲、4曲の[[オルガン]]曲、5曲の合奏曲を含んでいる。
 
{{日本語版にない記事リンク|パルヴィル手稿|en|Parville manuscript}}は1670年頃に作成され、55曲のルイ・クープランのクラヴサン曲を含んでいるが、この内5曲を除いてはボアン手稿と重複している。
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===クラヴサン作品===
ルイ・クープランの[[チェンバロ|クラヴサン]]作品の大部分は、[[ジャック・シャンピオン・ド・シャンボニエール|シャンボニエール]]と同じく、[[リュート]]曲の伝統に基づいた[[舞曲]]作品であるが、ルイ・クープランの作品はシャンボニエールのものに比べ、より複雑で劇的な性格を持っている。クラヴサン作品の全体のほぼ3分の2は[[アルマンド]]、[[クーラント]]、[[サラバンド]]、[[ジグ (音楽)|ジーグ]]で占められるが、その他に[[パッサカリア]]と[[シャコンヌ]]が重要である。両者の区別は既に曖昧となっており、しばしば[[ロンド形式]]を取る。[[パヴァーヌ]]嬰ヘ短調は、その厳粛な雰囲気と特殊な調性から、[[サーストン・ダート]]は[[エヌモン・ゴーティエ]]を偲んだ作品ではないかと推察している<ref>嬰ヘ短調はリュートではエヌモン・ゴーティエの「山羊」という曲で変則調弦によって用いられたので山羊の調 (ton de la Chèvre)として知られる。一方、当時のクラヴサンの調律法には不向きな調であり、あまり例がない。</ref>。これらの舞曲は基本的に[[組曲]]の形では残されていないが、現在演奏される場合は、適宜同じ調の作品で組曲を構成することが一般的である。
 
一方で、ルイ・クープランのクラヴサン作品の中で注目すべきジャンルとして、[[プレリュード・ノン・ムジュレ]]が挙げられる。ルイ・クープランはクラヴサンのためのプレリュード・ノン・ムジュレを残した最初の作曲家であると見なされている。ルイ・クープランはこの非定量的なプレリュードを、時に挿入される[[対位法]]的な部分を除いては、[[音価]]の区別なく[[音符|全音符]]のみによって記譜し、多様な[[スラー]]によって演奏の指示を与えている。
 
===オルガン作品===
ルイ・クープランの[[オルガン]]作品は、模倣的な[[フーガ]]及び[[幻想曲|ファンタジア]]や、[[グレゴリオ聖歌|聖歌]]を[[定旋律]]に用いた作品が主体である。これらはルネサンスの厳格な対位法による古様式と、新しいバロックの音楽語法との間の橋渡しをするものであり、音楽史的にも重要な作品群である。また一部の曲では《クロモルネによるファンタジア Fantaisie sur le Cromhorne》、《ティエルスによるフーガ Fugue sur la tierce》といったように、オルガンの[[レジストレーション]]が指定されており、これは後にフランスのオルガン音楽の特徴となるものである。
 
==脚注==