「ヨハネ23世 (ローマ教皇)」の版間の差分

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アンジェロ・ロンカリは[[1881年]]に[[イタリア]]の[[ベルガモ]]郊外の[[ソット・イル・モンテ・ジョヴァンニ・ヴェンティトレージモ|ソット・イル・モンテ]]で[[小作農]]の家に生まれた。これは[[貴族]]の家系に生まれた前任者の[[ピウス12世 (ローマ教皇)|ピウス12世]]とは対照的であった。[[1905年]]に司祭に[[叙階]]されたロンカリは、[[1915年]]に従軍司祭・衛生兵として[[第一次世界大戦]]に従軍した。[[1925年]]の[[ブルガリア]]の教皇使節任命を皮切りに、[[トルコ]]・[[ギリシャ]]と非ローマ・カトリック国での職務を歴任し、[[1944年]]には[[パリ]]に派遣された。フランスでは民衆の親独政権協力司祭への追及という難しい状況にあって誠意をもって対処した。[[1953年]]に[[枢機卿]]に任命されるとロンカリは[[ヴェネツィア]]の[[総大司教]]となった。
 
[[1958年]]、教皇ピウス12世の死去に伴って行われた[[コンクラーヴェ]]において、有力な候補者と思われていなかった76歳のロンカリが教皇に選ばれると世界が驚愕した。76歳での選出は選出時から過去200年の中では最高齢であり、ロンカリ自身も驚いた。彼は'''ヨハネ23世'''を名乗った。ヨハネ23世は就任選出時すでに高齢であったため、短期間の「つなぎの教皇」に過ぎないと見る向きもあり、実際に彼の任期は5年に満たない短いものであったが、彼はその飾らない態度と親しみやすさ、ユーモアのセンスによってすぐに世界を魅了した。これも厳格な表情をくずさなかったピウス12世とは対照的であった。
 
彼は教皇としてエキュメニズム(教会一致)への情熱を示した。1500年代以来、初めて[[イギリス国教会|英国教会]]大主教をバチカンに迎え、[[正教会]]へも公式メッセージを送った。また、東西[[冷戦]]の解決を模索し、[[キューバ危機]]においても米ソ双方の仲介に尽力した。さらに彼は長きにわたってカトリック教会の近代化を意図し、誰もが予期しなかった[[公会議]]の開催を指示した。彼は準備委員会を発足させ、ついに[[1962年]]10月、[[第2バチカン公会議]]の開催にこぎつけたが、この時彼はすでに[[胃癌]]に侵されており、[[1963年]][[6月3日]]午後7時49分(日本時間、4日午前39分)、会議の終了を待たずに世を去った。
 
2000年9月3日、教皇[[ヨハネ・パウロ2世 (ローマ教皇)|ヨハネ・パウロ2世]]によって列福された。