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{{記事名の制約|title=<span lang="zh">濊貊</span>}}
[[ファイル:Map of The east barbarian 0.png|thumb|350px|[[紀元前1世紀]]頃の[[東夷]]諸国と濊の位置。]]
'''{{lang|zh|濊}}貊'''(わいはく、かいはく)とは、中国の[[黒龍江省]]西部・[[吉林省]]西部・[[遼寧省]]東部から[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]東、韓国[[江原道]]にかけて、北西~南東に伸びる帯状の地域に存在したとされる古代の種族。同種の近縁である{{lang|zh|濊}}と貊の関係二種族を連称したもの。[[周]]代以降の記録ついては諸説あ濊・貊の名が見えるが、漢代に入り濊貊と記されるケースが増え(後述)
 
== 呼称 ==
[[紀元前2世紀]]の中国東北部にいた「濊」「貊」<!--先秦前漢時代から用例が存在する-->は、濊貊・沃沮・高句麗・夫余の四種族の前身であり、現在の韓国江原道にいた「東濊(濊貊)」は前漢代の中国東北部にいた濊の後裔とされる。
前漢代([[紀元前2世紀]])には、中国東北部の先住民は「濊」と呼ばれ、「濊邑」「濊君」などの用語が使われている。三国時代(3世紀)には「東濊・沃沮・[[高句麗]]・[[夫余]]」の4種族があったが、これらはみな前漢代の「濊」の後裔で、『後漢書』によるとこれらの地はすべて朝鮮([[衛氏朝鮮]])の勢力圏だった。この中で高句麗は3世紀になると「貊」とも呼ばれた。[[周]]代の記録にも「貊」(またはそれと同音または近似音の貉・北發・白民・發)の名が見えるが、具体性はなく、もともとはほとんど空想上・伝説上の異民族の名であったが、これによって初めて「貊」が具体的な種族の名称となった。[[晋 (王朝)|晋]]代以降の編纂になる『後漢書』では、この「濊」と「貊」をくっつけて「濊貊」というようになった。古くから「濊」と「貊」の二つの種族の併称とする説があったが、「濊貊」という言葉は晋代以降に編纂された書物にしか登場しない。また『三国志』東夷伝の記述では、前漢代の「濊」と三国時代の「東濊」が混同されたまま記述が混在しているので注意が必要である。
 
他に史書には「部類」(符類・附類)や「高夷」という種族がみえるが、濊貊との関係の有無は不明である。部類は夫余の上古音と同じ(Pĭwa ʎĭa)とする説がある。高夷については、高句麗の先祖とする説(晋の[[孔晁]]の説)を拡大解釈して後の高句麗の本拠地(中朝国境山岳地帯)にいた種族とする説、前漢代の高成県(今の河北省滄州市)にいた異民族とする説、令支や孤竹とならんで登場することからもともとは初期の貊と同じく伝説上の種族とする説などがある。
濊貊系とみられる集団は、他に沃沮・部類(符類、附類)・高夷・東濊などと、貊と同音または近似音の貉・北發・白民などがある。史書には、[[夫余]]の出自が濊とみられる記述があり、また貊を[[高句麗]]の別名または別種と記す。部類と夫余の上古音が同じ(Pĭwa ʎĭa)とする説もある、[[晋 (王朝)|晋]]の[[孔晁]]は高句麗を高夷の子孫としている。
 
『後漢書』では、濊・沃沮・高句麗は元々朝鮮([[衛氏朝鮮]])の地に居たと記す。
 
==歴史==
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[[燕 (春秋)|燕]]の[[昭王 (燕)|昭王]](在位:前312 - 前279)の時代、燕は[[箕子朝鮮|朝鮮候国]]と戦って西部の[[真番]]・朝鮮を奪い取り、[[上谷]]・[[漁陽]]・[[右北平]]・[[遼西]]・[[遼東]]の5郡を置き北東へ長城を築いたが、その際に近隣の貊も燕の支配下に組み込まれた。
 
[[前漢]]の[[元朔]]元年([[紀元前128年|前128年]])当時、濊(後の東濊や沃沮や高句麗の地)は皆[[衛氏朝鮮]]に属していたが、濊君の南閭らは右渠に背き、28万人を率いて[[遼東郡]]に服属した。[[武帝 (漢)|武帝]]はこの地を[[蒼海郡]]としたが、数年で廃止した<ref>前126年、蒼海郡への道路建設で人々から反対運動が起こり廃止した《『[[史記]]』平準書・同公孫弘列伝、『[[漢書]]』武帝紀・同食貨志第四下》。</ref>。
 
武帝は[[元封 (漢)|元封]]3年([[紀元前108年|前108年]])に朝鮮を討伐し、[[衛満]]の孫の右渠を殺すと、その土地を分けて四つの郡([[真番郡]],[[臨屯郡]],[[楽浪郡]],[[玄菟郡]])を置き、玄菟郡治を沃沮城に置いた。昭帝の[[始元 (漢)|始元]]5年(前82)臨屯と真番を廃止し[[楽浪郡]],[[玄菟郡]]に併せた。
 
[[紀元前75年]]、貊族(夷貊)の攻撃を受けて玄菟郡治が北西の高句麗県へ移り、沃沮・は尽く楽浪の管轄へ移った。また、管轄範囲が広く遠いことから、・沃沮の住む単単大嶺の東側の部分に楽浪東部都尉を置き、不耐城を治所として嶺東七県(東暆県,不耐県,蚕台県,華麗県,耶頭味県,前莫県,夫租県)に分けて治めさせ、官吏は濊(東濊)の民が務めた。
 
[[後漢]]の[[建武 (漢)|建武]]6年([[30年]])、辺境の郡が整理され楽浪東部都尉も省かれた。その後、それぞれの県の渠帥(首長)が県侯に封じられ、不耐,華麗,沃沮(夫租)の諸県はみな侯となった。
 
[[32年]]、光武帝は高句驪侯を高句麗王に昇格させ、濊貊は夫余国と高句麗国の二つの王国をもつことになった。(江原道)と沃沮(咸鏡道)は各地に首長が並立し統一国家は作らなかった。夷狄(・沃沮・高句麗)の間で争いが続き、不耐以外の侯国は滅びたが、不耐の濊侯だけは(晋の官吏としての)功曹や主簿などの官員を置き、今(晋代)も続いている。この不耐侯国の官吏はすべて濊人(東濊人)が務めた。沃沮の村落の渠帥は、皆が古の県国制に則り三老を自称していた。
 
[[魏 (三国)|魏]]の[[正始 (魏)|正始]]6年([[245年]])、楽浪[[太守]]の[[劉茂]]と帯方太守の[[弓遵]]は、領内の東濊が後漢末から高句麗に従属していたため軍を起こして討ち、不耐侯らは配下の邑落を挙げて降伏した。8年([[247年]])、魏の宮廷へ朝貢に詣でたため、詔を下し改めて不耐濊王の位が授けられた。濊王は一般の住民と雑居していて、季節ごとに郡の役所へ朝謁する。楽浪と帯方の二郡に軍征や特別の徴税があるときには、濊人(東濊)にも税や夫役が割り当てられ普通の住民のように待遇される。