「濊貊」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
114.49.34.179 (会話) による ID:46515705 の版を取り消し |
|||
1行目:
{{記事名の制約|title=<span lang="zh">濊貊</span>}}
[[ファイル:Map of The east barbarian 0.png|thumb|350px|[[紀元前1世紀]]頃の[[東夷]]諸国と濊の位置。]]
'''{{lang|zh|濊}}貊'''(わいはく、かいはく)とは、中国の[[黒龍江省]]西部・[[吉林省]]西部・[[遼寧省]]東部から[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]東
==
[[紀元前2世紀]]の中国東北部にいた「濊」「貊」<!--先秦前漢時代から用例が存在する-->は、濊貊・沃沮・高句麗・夫余の四種族の前身であり、現在の韓国江原道にいた「東濊(濊貊)」は前漢代の中国東北部にいた濊の後裔とされる。
濊貊系とみられる集団は、他に沃沮・部類(符類、附類)・高夷・東濊などと、貊と同音または近似音の貉・北發・白民などがある。史書には、[[夫余]]の出自が濊とみられる記述があり、また貊を[[高句麗]]の別名または別種と記す。部類と夫余の上古音が同じ(Pĭwa ʎĭa)とする説もある、[[晋 (王朝)|晋]]の[[孔晁]]は高句麗を高夷の子孫としている。
『後漢書』では、濊・沃沮・高句麗は元々朝鮮([[衛氏朝鮮]])の地に居たと記す。
==歴史==
13 ⟶ 16行目:
[[燕 (春秋)|燕]]の[[昭王 (燕)|昭王]](在位:前312 - 前279)の時代、燕は[[箕子朝鮮|朝鮮候国]]と戦って西部の[[真番]]・朝鮮を奪い取り、[[上谷]]・[[漁陽]]・[[右北平]]・[[遼西]]・[[遼東]]の5郡を置き北東へ長城を築いたが、その際に近隣の貊も燕の支配下に組み込まれた。
[[前漢]]の[[元朔]]元年([[紀元前128年|前128年]])当時、
武帝は[[元封 (漢)|元封]]3年([[紀元前108年|前108年]])に朝鮮を討伐し、[[衛満]]の孫の右渠を殺すと、その土地を分けて四つの郡([[真番郡]],[[臨屯郡]],[[楽浪郡]],[[玄菟郡]])を置き、玄菟郡治を沃沮城に置いた。昭帝の[[始元 (漢)|始元]]5年(前82)臨屯と真番を廃止し[[楽浪郡]],[[玄菟郡]]に併せた。
[[紀元前75年]]、貊族(夷貊)の攻撃を受けて玄菟郡治が北西の高句麗県へ移り、沃沮・
[[後漢]]の[[建武 (漢)|建武]]6年([[30年]])、辺境の郡が整理され楽浪東部都尉も省かれた。その後、それぞれの県の渠帥(首長)が県侯に封じられ、不耐,華麗,沃沮(夫租)の諸県はみな侯となった。
[[32年]]、光武帝は高句驪侯を高句麗王に昇格させ、濊貊は夫余国と高句麗国の二つの王国をもつことになった。
[[魏 (三国)|魏]]の[[正始 (魏)|正始]]6年([[245年]])、楽浪[[太守]]の[[劉茂]]と帯方太守の[[弓遵]]は、領内の東濊が後漢末から高句麗に従属していたため軍を起こして討ち、不耐侯らは配下の邑落を挙げて降伏した。8年([[247年]])、魏の宮廷へ朝貢に詣でたため、詔を下し改めて不耐濊王の位が授けられた。濊王は一般の住民と雑居していて、季節ごとに郡の役所へ朝謁する。楽浪と帯方の二郡に軍征や特別の徴税があるときには、濊人(東濊)にも税や夫役が割り当てられ普通の住民のように待遇される。
|