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[[307年]]の夏、マクセンティウスと父マクシミアヌスとの共同統治はさらに大きな試練を迎えた。ガレリウス帝がより大きな軍団を連れてローマに進軍したのである。マクセンティウスは、ガレリウス帝と交渉を重ねながらも、一方ではセウェルス帝にしたのと同様に大金の約束とマクシミアヌス帝の威光によって敵兵の寝返りを謀った。そして実際に多くの兵が寝返ったために、ガレリウス帝は退却を余儀なくされ、マクセンティウスのイタリア・アフリカ支配が確立した。この戦いの途中でセウェルス帝はマクセンティウスに殺害された(おそらくローマ近郊のトレス・タベルネと思われるが、正確な状況は分かっていない)。
 
マクセンティウスはコンスタンティヌス帝と連携したいと狙っており、307年の初頭から接触を打診していたが、この年の夏になってマクシミアヌスが[[ガリア]]まで赴いた。以前この地で、コンスタンティヌスはマクシミアヌス帝の娘{{仮リンク|ファウスタ・フラウィア・マクシマ|en|Fausta|label=ファウスタ}}と結婚し、先輩皇帝マクシミアヌスから正帝に任命されたのである。しかし、コンスタンティヌス帝はガレリウス帝とは衝突したくないと考えており、ガレリウス帝と戦うマクセンティウスには目に見える支援はしなかった。
 
[[308年]]のおそらく4月頃、マクシミアヌスはローマで軍隊と共にいる息子マクセンティウスを退位させようとした。ところが、そのときに軍隊は息子を支持したので、父は驚いてコンスタンティヌス帝の元に逃避しなければならなくなった。