「パウロ6世 (ローマ教皇)」の版間の差分
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| 本名 = ジョ
| 生年月日 = {{生年月日と年齢|1897|9|26|死去}}
| 生地 = {{ITA1861}}、[[サレッツォ]]
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| 曖昧 = パウロ
}}
'''パウロ6世'''
== 生涯 ==
=== 聖職者 ===
[[北イタリア]]の[[サレッツォ]]の田舎貴族の家に生まれたジョ
パチェッリ枢機卿が教皇[[ピウス12世 (ローマ教皇)|ピウス12世]]に選ばれると後任の国務長官[[ルイジ・マリオーネ]]枢機卿の下、モンティーニは[[ファシスト党]]や[[ドイツ]]の[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス党]]との交渉など多くの困難な任務にあたった。マリオーネ枢機卿が1944年に死去すると、国務長官の代行としてモンティーニと[[ドメニコ・タルディーニ]]が任じられ、[[レジスタンス]]の保護に尽力する。
[[1953年]]には要職である[[ミラノ]]の[[大司教]]に任じられた。通常は枢機卿へのステップとみなされる地位であったが、彼の権勢を嫌ったピウス12世はモンティーニには枢機卿職を与えなかった(彼はピウス12世の有力な後継者とみられていた)<ref>教皇から枢機卿就任を勧められたものの、当時の教皇庁内の情勢を考慮して辞退した、という説もある。</ref>。ピウス12世が
=== 教皇 ===
モンティーニはヨハネ23世のよき協力者として[[第2バチカン公会議]]の運営を行った。ヨハネ23世が会期途中で死去すると、モンティーニは教皇に選ばれ、「パウロ6世」を名乗った。パウロ6世は自らの教皇冠を[[アメリカ]]の[[ワシントンD.C.]]にある無原罪の御宿りの聖母教会に寄贈した。ちなみにパウロ6世が最後に[[教皇冠]]を受けた教皇となった。次の教皇[[ヨハネ・パウロ1世 (ローマ教皇)|ヨハネ・パウロ1世]]は戴冠式を拒否して就任式に変更し、以後の教皇もそれに倣っているためである。
パウロ6世は公会議を全うさせ、その理念に基づく教会改革の実施に取り組んだ。また、パウロ6世のもとでシノドス(司教会議)が初めて行われ、現代にいたっている。
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[[画像:Nixon & Paul VI.gif|250px|thumb|[[リチャード・ニクソン]](左)と]]
「旅する教皇」といわれたパウロ6世は「初めて」づくしの教皇でもあった。教皇として
精力的に活動し、全世界を旅したパウロ6世は第2バチカン公会議後の新しい教皇像を示した。パウロ6世は[[1978年]]に[[カステル・ガンドルフォ]]の教皇別荘で死去したが、パウロ6世の示した「現代の教皇としての姿勢」は、後継の教皇たちに引き継がれていった。
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