「パウロ6世 (ローマ教皇)」の版間の差分

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| 司教 =
| その他 =
| 本名 = ジョヴァンニ・バッティスタ・モンティニ<br />Giovanni Battista Montini
| 生年月日 = {{生年月日と年齢|1897|9|26|死去}}
| 生地 = {{ITA1861}}、[[サレッツォ]]
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| 曖昧 = パウロ
}}
'''パウロ6世'''(Paolo({{lang-la|'''Paulus VI,'''}}、{{lang-en|'''Paul VI'''}}、[[1897年]][[9月26日]] - [[1978年]][[8月6日]])は、第262代[[ローマ教皇]](在位:[[1963年]][[6月21日]] - [[1978年]][[8月6日]])。本名は'''ジョヴァンニ・バッティスタ・モンティニ'''(Giovanni Battista Montini)。[[第2バチカン公会議]]を[[ヨハネ23世 (ローマ教皇)|ヨハネ23世]]から引継いで全うし、その理念の実施を促進。'''パウルス6世'''(Paulus VI)とも表記される。
 
== 生涯 ==
=== 聖職者 ===
[[北イタリア]]の[[サレッツォ]]の田舎貴族の家に生まれたジョヴァンニ・モンティニは[[1920年]]に[[司祭]][[叙階]]された。[[グレゴリアン大学]]などで学んだ後、[[ピウス11世 (ローマ教皇)|ピウス11世]]の時代に[[教皇庁]]の国務長官パチェッリ[[枢機卿]]のもとで働いた。
 
パチェッリ枢機卿が教皇[[ピウス12世 (ローマ教皇)|ピウス12世]]に選ばれると後任の国務長官[[ルイジ・マリオーネ]]枢機卿の下、モンティニは[[ファシスト党]]や[[ドイツ]]の[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス党]]との交渉など多くの困難な任務にあたった。マリオーネ枢機卿が1944年に死去すると、国務長官の代行としてモンティニと[[ドメニコ・タルディーニ]]が任じられ、[[レジスタンス]]の保護に尽力する。
 
[[1953年]]には要職である[[ミラノ]]の[[大司教]]に任じられた。通常は枢機卿へのステップとみなされる地位であったが、彼の権勢を嫌ったピウス12世はモンティニには枢機卿職を与えなかった(彼はピウス12世の有力な後継者とみられていた)<ref>教皇から枢機卿就任を勧められたものの、当時の教皇庁内の情勢を考慮して辞退した、という説もある。</ref>。ピウス12世がくなってヨハネ23世が教皇職につくと、すぐさまモンティニは枢機卿に任命された。
 
=== 教皇 ===
モンティニはヨハネ23世のよき協力者として[[第2バチカン公会議]]の運営を行った。ヨハネ23世が会期途中で死去すると、モンティニは教皇に選ばれ、「パウロ6世」を名乗った。パウロ6世は自らの教皇冠を[[アメリカ]]の[[ワシントンD.C.]]にある無原罪の御宿りの聖母教会に寄贈した。ちなみにパウロ6世が最後に[[教皇冠]]を受けた教皇となった。次の教皇[[ヨハネ・パウロ1世 (ローマ教皇)|ヨハネ・パウロ1世]]は戴冠式を拒否して就任式に変更し、以後の教皇もそれに倣っているためである。
 
パウロ6世は公会議を全うさせ、その理念に基づく教会改革の実施に取り組んだ。また、パウロ6世のもとでシノドス(司教会議)が初めて行われ、現代にいたっている。
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[[画像:Nixon & Paul VI.gif|250px|thumb|[[リチャード・ニクソン]](左)と]]
「旅する教皇」といわれたパウロ6世は「初めて」づくしの教皇でもあった。教皇としてはじめて5大陸をめぐり、はじめて[[飛行機]]を利用した教皇となり、はじめて聖地[[エルサレム]]に足を踏み入れた教皇にもなった。[[エキュメニズム]](教会の一致)にも心を注ぎ、教皇として初めて[[イギリス国教会|英国国教会]]の[[カンタベリー大主教]]や、[[東方教会]]の[[総主教]]たちを訪問、[[正教会]]の[[アシナゴラス (コンスタンディヌーポリ総主教)|コンスタンディヌーポリ総主教アシナゴラス]]とも会談した。また、彼の時代、枢機卿団の人数が増やされ、80歳以上の枢機卿の[[コンクラーヴェ]]での投票権を廃するなど教皇選出の方法の改革が行われた。
 
精力的に活動し、全世界を旅したパウロ6世は第2バチカン公会議後の新しい教皇像を示した。パウロ6世は[[1978年]]に[[カステル・ガンドルフォ]]の教皇別荘で死去したが、パウロ6世の示した「現代の教皇としての姿勢」は、後継の教皇たちに引き継がれていった。