「ヨハネス18世 (ローマ教皇)」の版間の差分
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{{ infobox 教皇
[[ファイル:Ioannes XVIII.jpg|thumb|160px|ヨハネス18世]]▼
| 日本語名 = ヨハネス18世
| タイトル = 第141代 ローマ教皇
| 画像説明 =
| 就任 = 1004年1月
| 離任 = 1009年6月
| 先代 = [[ヨハネス17世 (ローマ教皇)|ヨハネス17世]]
| 次代 = [[セルギウス4世 (ローマ教皇)|セルギウス4世]]
| 司祭 =
| 司教 =
| その他 =
| 本名 = ジョヴァンニ・ファサーノ<br />Giovanni Fasano
| 生年月日 = 不明
| 生地 = [[ラパニャーノ]]
| 没年月日 = 1009年6月ないし7月
| 没地 = ローマ
| 埋葬地 =
| 原国籍 =
| 宗派 =
| 居住地 =
| 親 =
| 妻 =
| 子 =
| 母校 =
| 署名 =
| 曖昧 = ヨハネス
}}
'''ヨハネス18世'''('''
[[ローマ]]の聖職者レオの子として[[ラパニャーノ]]にて生まれる。本名は'''ジョヴァンニ・ファサーノ'''(Giovanni Fasano)。ラテン語名の'''ファサニウス'''(Fasanius)としても知られる。▼
▲'''ヨハネス18世'''('''Johannes XVIII''', ? - [[1009年]]6月ないし7月)は[[ローマ教皇]](在位:[[1004年]] - 1009年)。
伝承によれば、教皇在任中はずっと、ローマを支配する一門であるクレスケンティウス一族の首領にしてパトリキウス(貴族階級の軍事指導者)であるヨハネス・クレスケンティウス3世に従属させられていた。この期間はまた、のちに[[神聖ローマ帝国|神聖ローマ皇帝]]となる[[ハインリヒ2世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ2世]]と、自称[[イタリア王]]のアルドゥイノ・ディヴレア(Arduino d'Ivrea)との間に生じた衝突によって混乱していた時期でもあった。またローマは[[ペスト]]禍に見舞われ、[[サラセン人]]らが[[ティレニア海]]沿岸を略奪した。▼
▲[[ローマ]]の聖職者レオの子として[[ラパニャーノ]]にて生まれる。名はファサニウス(Fasanius)。
▲伝承によれば、教皇在任中はずっと、ローマを支配する一門であるクレスケンティウス一族の首領にしてパトリキウス(貴族階級の軍事指導者)であるヨハネス・クレスケンティウス3世に従属させられていた。この期間はまた、のちに[[神聖ローマ帝国|神聖ローマ皇帝]]となる[[ハインリヒ2世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ2世]]と、自称[[イタリア王]]のアルドゥイノ・ディヴレアとの間に生じた衝突によって混乱していた時期でもあった。またローマは[[ペスト]]禍に見舞われ、[[サラセン人]]らが[[ティレニア海]]沿岸を略奪した。
教皇としてヨハネス18世は細かな教会組織の管理に専心した。また[[スラヴ人]]への布教活動の前線として[[バイエルン州|バイエルン]]の都市[[バンベルク]]に[[司教|司教座]]を制定した。バンベルク司教座は皇帝ハインリヒ2世にとっても重要なものであった。そしてフルーリー修道院長とサンス司教・[[オルレアン]]司教の諍いの裁定もおこなった。
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[[Category:教皇|よはねす18]]
[[Category:1009年没]]
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