「松平正容」の版間の差分

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{{基礎情報 武士
| 氏名 = 松平 正容 / 保科 正容
| 画像 =
| 画像サイズ =
| 画像説明 =
| 時代 = [[江戸時代]]前期 - 中期
| 生誕 = [[寛文]]9年[[1月29日 (旧暦)|1月29日]]([[1669年]][[3月1日]])
| 死没 = [[享保]]16年[[9月10日 (旧暦)|9月10日]]([[1731年]][[10月10日]])
| 改名 = 重四郎(幼名)、)→保科正信正容松平正容
| 別名 =
| 諡号 =
| 神号 = 徳翁霊神
| 戒名 =
| 霊名 =
| 墓所 =
| 官位 = [[従四位|従四位下]]下、[[侍従]]兼[[肥後国|肥後]]、[[近衛府|左近衛権少将]]、<br />[[正四位|正四位下]]下、左近衛権中将
| 幕府 =[[江戸幕府]]
| 主君 = [[徳川将軍家]]
| 藩 = [[陸奥国|陸奥]][[会津藩]]
| 氏族 = [[保科氏]]→[[会津松平家]]
| 父母 = 父:[[保科正之]]、母:沖氏<br />養父:''[[保科正経]]''
| 兄弟 = [[保科正頼|正頼]]、[[保科正経|正経]]、[[保科正純|正純]]、'''松平正容'''<br/>媛姫([[上杉綱勝]]正室)<br/>摩須([[前田綱紀]]正室)、[[石姫]]([[稲葉正往]]正室)
| 妻 = 正室:'''竹姫'''([[阿部正武]]の娘)<br />継室:[[栄光院 (松平正容継室)|祐]](横山常定の娘)<br />側室:榎本氏、小林氏、篠沢氏、[[本妙院 (松平正容側室)|塩見氏]]<br />外嶋氏
| 子 = [[松平正邦|正邦]](長男)、[[松平正甫|正甫]](三男)、[[松平正房|正房]](五男)<br />'''[[松平容貞|容貞]]'''(八男)、[[松平容章|容章]](九男)<br />養姫([[松平定喬]]と婚約)、常姫([[前田宗辰]]正室)
| 特記事項 =
}}
 
'''松平 正容'''(まつだいら まさかた) / '''保科 正容'''(ほしな まさかた)は、[[江戸時代]]前期の[[陸奥国|陸奥]][[会津藩]]主。保科会津松平家第3代。
 
[[保科正之]]の六男として生まれる。延宝8年(1680年)、異母兄の[[保科正経|正経]]に子がいなかったため、その養嗣子となる。[[天和 (日本)|天和]]元年([[1681年]])には兄の隠居に伴い家督を相続する。[[元禄]]9年([[1696年]])、[[松平氏|松平姓]]と[[三つ葉葵葵の紋]]の永代使用を許され、名実ともに徳川一門として遇されることになる。
 
藩主在職中に死去した。長男・[[松平正邦|正邦]]、三男・[[松平正甫|正甫]]が先だって死去したため、[[家督]]は八男[[松平容貞|容貞]]が承継した。
 
[[吉川惟足]]の弟子で、吉川惟足の子と父の神式での葬儀を行った[[坂本義邵]]を会津藩士として召抱え、その指導の下で[[徳川吉宗]]の理髪を行ったという。
 
== 経歴 ==
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*[[1696年]]([[元禄]]9年):松平姓、葵紋所許される([[12月9日 (旧暦)|12月9日]])
 
==官位位階==
*[[1681年]](天和元年):従四位下侍従兼肥後守に叙任
*[[1687年]]([[貞享]]4年):左近衛権少将
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正容は側室を家臣に下げ渡す、いわゆる拝領妻が多かった。継室となった栄光院の権勢を憚ってのことといわれる。容貞の母、本妙院(伊知、塩見氏)は、14歳で側室となり、翌年容貞を出産。16歳で家臣・笹原忠一に下げ渡され、娘も生まれたが、容貞が兄たちの早世により嫡子となったため、強制的に離縁。当初離縁を拒否した笹原家は処分を受け、また本妙院は23歳で病没した。このことが『[[拝領妻始末]]』の原案となっている。
 
{{会津松平家|第3代|1681年 - 1731年}}
{{会津藩主|保科家/会津松平家|3代|1681年 - 1731年}}
 
{{DEFAULTSORT:まつたいら まさかた}}
[[Category:会津松平氏|まさかた]]
[[Category:親藩]]
[[Category:会津藩主|松03]]
[[Category:日本の神 (人物神 江戸時代大名)]]
[[Category:1669年生]]
[[Category:1731年没]]