「六道の辻」の版間の差分

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[[Image:Sendai City major streets.svg|thumb|250px|六道の辻は、上図の北目町通がJR東北本線と交差する辺りにあった。]]
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'''六道の辻'''(りくどうのつじ、ろくどうのつじ)は、[[仙台藩]]・[[仙台城陸奥国]][[仙台城下町]]にあった変則六叉路(実質五叉路)に付けられた名称。「'''六道辻'''」とも書く<ref>杜撰子誌「奥陽名数」 [[1845年]]([[弘化]]2年)</ref>。現在の[[宮城県]][[仙台市]][[青葉区 (仙台市)|青葉区]]、[[宮城野区]]、[[若林区]]の3区の区境が集まる「[[中央 (仙台市)|中央]]4丁目交差点」から「北目町[[ガード]]」辺りにあった({{ウィキ座標|38|15|25.2|N|140|52|55.2|E|region:JP|地図|name=六道の辻}})
 
== 構成する道路等 ==
東西道路([[北目町通り]])と南北道路(六道の辻の北側は[[東六番丁通り|東六番丁]]、南側は[[清水小路]])とがつくる[[十字路]]に、北西から[[東五番丁通り|東五番丁]]南端が同十字路のやや西で北目町通に接続する変則五叉路の形状をしていた。ただし、清水小路には道の中央に[[開渠]]で幅1[[メートル|m]]位の[[四ツ谷用水]]の支流の水路1本が[[五橋]]方面に流れていたため、1つの道ながら2本の並走する道の状態であり、結果的に変則六叉路となった。
 
現在は、東六番丁が[[東日本旅客鉄道|JR]][[東北本線]]などの軌道敷に転用されているため消滅し、四ツ谷用水は埋められ<ref group="†">[[暗渠]]化されたかは不明。</ref>、東五番丁と清水小路が1本の道として[[愛宕上杉通り]]となっている。愛宕上杉通りと北目町通りとがつくる[[十字路]]は「中央4丁目交差点」と名付けられた。また、JR軌道敷は[[立体交差]]化され、北目町通の上空を跨ぐ「[[北目町]][[ガード]]」となっている。
 
== 概要 ==
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このため、東一番丁と東二番丁から東五番丁までは、南北軸に対する傾きの違いから同城下町北部の勾当台地区にその北端が集約し、[[江戸時代]]には仙台城の[[鬼門]]封じの[[定禅寺]]が置かれた。その後、[[明倫養賢堂]]が置かれ、[[明治]]以降は宮城県庁舎、[[仙台市役所]]、国の[[出先機関]]などの[[行政]]施設、および、[[宮城師範学校]]、[[宮城県図書館|宮城書籍館]]、商品陳列所、[[仙台衛戍病院]]などの施設が建設された。現在では[[勾当台公園]]として集客装置となっている。
 
[[1627年]]([[寛永]]4年)から、政宗の[[隠居]]所となる[[若林城]]および[[若林城下町]]<ref group="†">[http://www.city.sendai.jp/kyouiku/bunkazai/wakabayashi/1.html 若林城とは「○若林城下」](仙台市)…若林城下町の範囲が図示されている。</ref>が仙台城下町の南東に接して広瀬川沿いの[[沖積平野]]に建設が始められた。このとき、仙台城下町も拡張され、東五番丁の東側には侍町は[[東六番丁通り|東六番丁]]から[[東九番丁]]まで([[大年寺山断層]]<ref name="fault line">[http://www.hp1039.jishin.go.jp/danso/Miyagi3B/figures/f1-4-1-1.jpg 図1-4-1-1]([http://www.hp1039.jishin.go.jp/danso/Miyagi3Bfrm.htm H10 宮城県:長町-利府線断層帯(稠密浅層ボーリング調査・地層抜き取り調査)]「[http://www.hp1039.jishin.go.jp/danso/Miyagi3B/2.htm 2 既往調査成果の概要]」)</ref>の[[断層崖]]手前まで)設置され、その東側にも寺社地が[[長町 - 利府線]]([[断層]])<ref name="fault line"/>の断層崖手前まで設置された<ref group="†">両城下町の境界は[[荒町]]の[[満福寺 (仙台市)|毘沙門堂]]。[[1636年]]([[寛永]]13年)の政宗の死去とともに若林城は廃城となり、両城下町は統合された。</ref>。このとき、東六番丁以降は大年寺山断層の走行に沿って[[北東]]から[[南西]]に南北軸に対して傾きを持って通す形となった。
 
南北軸に対する傾きの違いから、東五番丁までと東六番丁以降が仙台城下町南東部においてその南端が集約し、「六道の辻」が生まれることとなった。六道の辻から北に延びる東六番丁はそのまま[[宮町通り]]となり、真っ直ぐ[[仙台東照宮]]門前に繋がっていた。また、北目町通の東(大年寺山断層の東)には寺社地が集積した。
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「六道の辻」の名は、[[1833年]]([[天保]]4年)の「御城下町割絵図」<ref>[http://eichi.library.pref.miyagi.jp/ezu/84.html 御城下町割絵図]([[宮城県図書館]]「[http://eichi.library.pref.miyagi.jp/ezu/index.html 古絵地図]」)</ref>には記載されているため、寛永年間から天保年間までの約200年のいずれかの時期にこの呼称が当辻に命名されたと推定できる。
 
名称の由来はいくつかあり、上記のような6本の道の交差点であるためとする説、仙台城下町の町外れにあって寺社地への岐路にあり、[[仏教]]の[[輪廻]]思想における[[六道]]を当てたという説<ref>{{PDFlink|[http://www.city.sendai.jp/shimin/kusei/rekishi_cf/pdf/shiryou1-6-2.pdf 資料]}}(仙台市[http://www.city.sendai.jp/shimin/kusei/rekishi_cf/index.html 歴史的町名復活検討委員会])</ref>、[[幕末]]に[[龍泉院]]<ref group="†">[[仙台]]の名前の由来となったされる千躰仏を安置する六角堂がある({{ウィキ座標|38|15|22.2|N|140|53|15.4|E|region:JP|地図|name=六角堂(仙台の名の由来とされる千躰仏が安置)}})。[[仙台城]]建設に伴い、[[1602年]]([[慶長]]7年)に東九番丁の現在地に移転した。</ref>跡地(旧・[[宮城県スポーツセンター]]辺り)にあった[[地蔵菩薩#六地蔵|六地蔵]]<ref group="†">一体の台座に「[[享保]]16年([[1731年]])建立」と刻字されている。</ref>をこの辻に移したためとする説などがある。
 
なお、[[1887年]]([[明治]]20年)[[12月15日]]に[[仙台区]](現・[[仙台市]])には[[日本鉄道]](現・[[JR]][[東北本線]])が開通するが、建設の際にその六地蔵は[[東九番丁]]の龍泉院西門前に移転された({{ウィキ座標|38|15|23.3|N|140|53|13.5|E|region:JP|地図|name=六地蔵の現在地(龍泉院西門前)}})
 
== 脚注・参考文献 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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=== 参考文献 ===
* 「仙台市史 通史編3 近世1」(仙台市)