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[[ファイル:大日本帝国剣道形制定主査委員.jpg|thumb|200px|[[1912年]]([[大正]]元年)10月、[[日本剣道形#大日本帝国剣道形|大日本帝国剣道形]]制定委員主査。前列右・根岸信五郎。]]
'''根岸 信五郎'''(ねぎし しんごろう、[[1844年]]([[弘化]]元年)[[1月 (旧暦)|1月]] - [[1913年]]([[大正]]2年)[[9月15日]])は、[[日本]]の[[武士]]([[越後長岡藩|長岡藩]]士)、[[剣術]]家([[神道無念流]]。[[大日本武徳会]][[範士|剣道範士]])。[[諱]]は'''資剛'''。
 
== 経歴 ==
=== 生い立ち ===
[[ファイル:大日本帝国剣道形制定主査委員.jpg|thumb|200px|[[1912年]]([[大正]]元年)10月、[[日本剣道形#大日本帝国剣道形|大日本帝国剣道形]]制定委員主査。前列右・根岸信五郎。]]
 
[[越後長岡藩]][[家老]]・[[越後長岡藩の家臣団#牧野(頼母)家|牧野頼母]](図書)の[[庶子]]であったが、同藩の[[町奉行]]250[[石高|石]]・[[越後長岡藩の家臣団#根岸氏|根岸四郎右衛門]]の[[養子縁組|養子]]となった。8歳から[[剣術]]を学ぶ。
 
=== 練兵館で修行 ===
藩主・[[牧野忠恭]]から、同[[藩士]]・[[小野田伊織]]と共に[[江戸]]での剣術修行を命じられ、[[1863年]]([[文久]]3年)春、江戸へ出て[[神道無念流]][[斎藤弥九郎]]の[[練兵館]]に入門。弥九郎の長男[[斎藤新太郎|新太郎]](2代目斎藤弥九郎)の指南を受けた。同門には[[木戸孝允|桂小五郎]]や[[渡邊昇|渡辺昇]]など[[明治維新]]の[[志士]]もいたが、桂は[[1859年]]([[安政]]5年)に[[長州藩]]に帰藩したので根岸が入門した当時は既に練兵館にいなかった。[[1865年]]([[慶応]]元年)、[[免許皆伝]]を授けられる。同時に[[師範代]]に任ぜられたともいう
 
=== 戊辰戦争 ===
[[1865年]]([[慶応]]元年)、[[免許皆伝]]を受ける。同時に[[師範代]]に任ぜられたともいう。
帰藩後、[[戊辰戦争]]が勃発し、[[北越戦争|長岡の戦い]]に剣術隊長として出陣する。[[河井継之助]]指揮のもと[[官軍|新政府軍]]と戦い、[[長岡城]]が奪われたときは剣客百余名を組織して城の奪回に成功した。その後、貫通[[銃創]]を負い、傷口に[[蛆]]がわいたが、荒縄を通し擦り落として一命を取り留めた。
 
*[[長岡この実争]]の体験について後年、「初めて敵と相対した際、相手の武器の種類とか、間合とかの判断はとても不可能で、只、夢中に刀を振りあげて体ごと敵にぶつけたのち、ア、自分は無事だったかと感ずるだけで、(当時は切紙の腕前など全く受けつけないほどの伎倆だったにもかかわらず)、あとで我にかえると体はガタガタで、息は苦しく、力は殆ど抜け切ってしまっていた。実戦の異状さは容易に想像できぬもので、度重なるに従い、何となく心に余裕らしきものは出てくるが、サテとなると平静とはいえぬ夢中さが出て、終戦まで遂に脱し切れなかった」と語っ述懐した<ref>『[[中山博道]] 剣道口述集』(「根岸信五郎先生の長岡戦争」)。</ref>。
帰藩後、[[戊辰戦争]]が勃発し、[[北越戦争|長岡の戦い]]に剣術隊長として出陣する。[[河井継之助]]指揮のもと[[官軍|新政府軍]]と戦い、[[長岡城]]が奪われたときは剣客百余名を組織して城の奪回に成功した。その後、貫通[[銃創]]を負い、傷口に[[蛆]]がわいたが、荒縄で擦り落として一命を取り留めた。
 
=== 明治維新後 ===
[[1873年]]([[明治]]6年)、2代目斎藤弥九郎主催の[[浅草]][[撃剣興行]]に参加。[[1883年]](明治16年)、[[憲兵 (日本軍)|憲兵]][[軍曹]]として[[警視庁 (内務省)|警視庁]]主催の[[弥生慰霊祭記念柔道剣道試合|向ヶ弥生社撃剣大会]]に出場し、[[直心影流剣術|直心影流]]江原則明に勝つ。[[1884年]](明治17年)、同大会で[[三橋鑑一郎]]に敗れる。[[1885年]](明治18年)、[[高輪]]の[[伊藤博文]]邸で開催された[[天覧試合]]に出場し、[[坂部大作]]と引き分ける。同年、[[宮内省]][[済寧館]]天覧試合にも出場し、渡辺楽之助に敗れる。
 
[[1885年]](明治18年)、[[神田区]]西小川町に「[[有信館]]」道場を設立。剣道界に大きな勢力を持つ道場となる。[[1888年]](明治21年)、[[憲兵 (日本軍)|憲兵]]から警察に転じ、[[警視庁武術世話掛|警視庁撃剣世話掛]]、[[皇宮警察 (宮内省)|皇宮警察]]撃剣世話掛、宮内省済寧館[[御用掛]]を歴任。
 
[[1894年]](明治27年)、[[学校法人慶應義塾|慶應義塾]]剣術部の師範となる(同部は隆盛を極め、慶應義塾は[[1918年]](大正7年)、普通部3年生以上に正課として剣道を課し、また幼稚舎6年生にも剣道の指導を行うことを決定することとなる)。
 
=== 逸話晩年 ===
[[1895年]](明治28年)、[[大日本武徳会]]第1回[[全日本剣道演武大会|武徳祭大演武会]]に出場し、特に優秀と認められ[[精錬証]]を授与される。[[1906年]](明治39年)、[[範士]]号を授与される。[[真貝忠篤]]、[[得能関四郎]]と共に「東都剣道界の三[[元老]]」と称され、明治剣道界の[[大御所]]的存在であった。[[1911年]](明治44年)、剣道形調査委員(全国から25名選出)の主査に選ばれ、[[日本剣道形#大日本帝国剣道形|大日本帝国剣道形]]制定に尽力した。信五郎には妻(名は玉子)がいたが、実子が無かったため、高弟の[[中山博道]]を養子にして、神道無念流有信館を継がせた。
 
*老齢になった根岸は、弟子に抱えられて道場に入り、弟子の手で支度したが、いったん[[竹刀]]を構えると、血気盛んな者がどんなに激しく打ちかかっても少しも体に当てさせず、難なく打ち込んだ。しかも根岸の竹刀はゆっくり動いていたという。このことについて[[笹森順造]]は、「体力でも技力でもなく、思慮を超えた先見、透視のはたらきである」と述べている。
信五郎には妻(名は玉子)がいたが、実子が無かったため、高弟の[[中山博道]]を養子にして、神道無念流有信館を継がせた。中山は[[昭和]]初期の剣道界において「[[昭和の剣聖|剣聖]]」と称された。
 
[[1913年]](大正2年)9月15日、死去。享年70。[[法名]]は有信院殿顕揚祖道無念大居士。墓は[[東京都]][[港区 (東京都)|港区]][[南麻布]]の天真寺。中山博道も同寺に葬られている。また、港区[[愛宕 (東京都港区)|愛宕]]の[[曹洞宗]]青松寺に弟子たちが建立した巨大な顕彰碑があったが、[[1999年]]([[平成]]11年)、再開発により[[埼玉県]][[戸田市]]内の寺(多福院)に移転した。
 
== 逸話 ==
*[[長岡戦争]]の体験について後年、「初めて敵と相対した際、相手の武器の種類とか、間合とかの判断はとても不可能で、只、夢中に刀を振りあげて体ごと敵にぶつけたのち、ア、自分は無事だったかと感ずるだけで、(当時は切紙の腕前など全く受けつけないほどの伎倆だったにもかかわらず)、あとで我にかえると体はガタガタで、息は苦しく、力は殆ど抜け切ってしまっていた。実戦の異状さは容易に想像できぬもので、度重なるに従い、何となく心に余裕らしきものは出てくるが、サテとなると平静とはいえぬ夢中さが出て、終戦まで遂に脱し切れなかった」と語った<ref>『中山博道 剣道口述集』(「根岸信五郎先生の長岡戦争」)。</ref>。
 
*老齢になった根岸は、弟子に抱えられて道場に入り、弟子の手で支度したが、いったん[[竹刀]]を構えると、血気盛んな者がどんなに激しく打ちかかっても少しも体に当てさせず、難なく打ち込んだ。しかも根岸の竹刀はゆっくり動いていたという。このことについて[[笹森順造]]は、「体力でも技力でもなく、思慮を超えた先見、透視のはたらきである」と述べている。
 
== 著書 ==
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*{{Cite book|和書|editor=慶應義塾史事典編集委員会編|date=2008年(平成20年)11月|title=慶應義塾史事典|publisher=[[慶應義塾大学出版会]]|isbn=978-4-7664-1572-8|url=http://www.keio-up.co.jp/np/isbn/9784766415728/}}
 
== 関連項目 ==
*[[越後長岡藩の家臣団]]
 
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[[Category:剣道家]]
[[Category:神道無念流剣術]]
[[Category:宮内省剣道の人物]]
[[Category:大日本武徳会の武道家]]
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[[Category:宮内省剣道の人物]]
[[Category:慶應義塾の教員]]
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