「ヴァイオリン協奏曲 (ブラームス)」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
m ボット: 言語間リンク 12 件をウィキデータ上の (d:Q1156068 に転記)
編集の要約なし
1行目:
{{Portal クラシック音楽}}
[[ヨハネス・ブラームス|ブラームス]]の'''ヴァイオリン協奏曲''' ニ長調 作品77((''Violinkonzert D-Dur op.'')作品77)は、[[1878年]]に作曲された[[ヴァイオリン]]と[[管弦楽]]のための[[協奏曲]]。
 
ブラームスは幼時からピアノよりも先にヴァイオリンとチェロを学び、その奏法をよく理解してはいたが、最初の、そして唯一のヴァイオリン協奏曲を書き上げたのは45歳になってからだった。これは、[[交響曲第2番 (ブラームス)|交響曲第2番]]の翌年という、彼の創作活動が頂点に達した時期にあたり、交響的な重厚な響き、入念な主題操作、独奏楽器を突出させないバランス感覚、いずれもブラームスの個性が存分に表現された名作となった。本作品は、[[ヴァイオリン協奏曲 (ベートーヴェン)|ベートーヴェンの作品61]]、[[ヴァイオリン協奏曲 (メンデルスゾーン)|メンデルスゾーンの作品64]]と並んで'''3大ヴァイオリン協奏曲'''と称されている。
 
この作品を聴いた[[ジャン・シベリウス|シベリウス]]は、その交響的な響きに衝撃を受け、自作の[[ヴァイオリン協奏曲 (シベリウス)|ヴァイオリン協奏曲]]を全面的に改訂するきっかけとなった。
9行目:
 
==作曲の経緯==
1877年9月に[[バーデンバーデン]]で[[マックス・ブルッフ|ブルッフ]]の[[ヴァイオリン協奏曲第2番 (ブルッフ)|ヴァイオリン協奏曲第2番]]を[[パブロ・デ・サラサーテ|サラサーテ]]が演奏するのを聴き、その演奏に強い感銘を受け、同時に作品が技巧の披露の他には内容が希薄であることへの疑問を受けたブラームスはヴァイオリン協奏曲の作曲を思い立った。
 
1878年イタリア旅行の帰りに、避暑地ペルチャッハに滞在し、ここで本格的にヴァイオリン協奏曲の作曲を行った。同年8月21日付けの[[ヨーゼフ・ヨアヒム|ヨアヒム]]宛の手紙では、ヴァイオリン協奏曲のパッセージについて相談している。また翌日の手紙には協奏曲は4つの楽章からなる作品であると書いている。これに対してヨアヒムからは、スコアがないと判らないがとしながらも、独奏パートについての助言が届いた。さらにヨアヒムはブラームスの元を訪れ、この曲について議論をしている。10月中旬にヨアヒムは、ブラームスを説得し、翌1879年の[[ライプツィヒ]]での新年のコンサートでこの曲を初演することを決めた。11月になってブラームスは、中間の2つの楽章を破棄し、新たな緩徐楽章を書いた。ブラームスがリハーサルのためにスコアとソロ・パートの楽譜をベルリンのヨアヒムに送ったのは12月12日になってからだった。
37行目:
 
{{ブラームスの協奏曲}}
 
[[Category:ヴァイオリン協奏曲|ふらあむす]]
[[Category:ブラームスの協奏曲|うあいおりんきようそうきよく]]