「ヴァイオリン協奏曲 (ブラームス)」の版間の差分
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[[ヨハネス・ブラームス|ブラームス]]の'''ヴァイオリン協奏曲''' ニ長調
ブラームスは幼時からピアノよりも先にヴァイオリンとチェロを学び、その奏法をよく理解してはいたが、最初の、そして唯一のヴァイオリン協奏曲を書き上げたのは45歳になってからだった。これは、[[交響曲第2番 (ブラームス)|交響曲第2番]]の翌年という、彼の創作活動が頂点に達した時期にあたり、交響的な重厚な響き、入念な主題操作、独奏楽器を突出させないバランス感覚、いずれもブラームスの個性が存分に表現された名作となった。本作品は、[[ヴァイオリン協奏曲 (ベートーヴェン)|ベートーヴェンの作品61]]、[[ヴァイオリン協奏曲 (メンデルスゾーン)|メンデルスゾーンの作品64]]と並んで'''
この作品を聴いた[[ジャン・シベリウス|シベリウス]]は、その交響的な響きに衝撃を受け、自作の[[ヴァイオリン協奏曲 (シベリウス)|ヴァイオリン協奏曲]]を全面的に改訂するきっかけとなった。
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==作曲の経緯==
1877年9月に[[バーデン
1878年イタリア旅行の帰りに、避暑地ペルチャッハに滞在し、ここで本格的にヴァイオリン協奏曲の作曲を行った。同年8月21日付けの[[ヨーゼフ・ヨアヒム|ヨアヒム]]宛の手紙では、ヴァイオリン協奏曲のパッセージについて相談している。また翌日の手紙には協奏曲は4つの楽章からなる作品であると書いている。これに対してヨアヒムからは、スコアがないと判らないがとしながらも、独奏パートについての助言が届いた。さらにヨアヒムはブラームスの元を訪れ、この曲について議論をしている。10月中旬にヨアヒムは、ブラームスを説得し、翌1879年の[[ライプツィヒ]]での新年のコンサートでこの曲を初演することを決めた。11月になってブラームスは、中間の2つの楽章を破棄し、新たな緩徐楽章を書いた。ブラームスがリハーサルのためにスコアとソロ・パートの楽譜をベルリンのヨアヒムに送ったのは12月12日になってからだった。
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{{ブラームスの協奏曲}}
[[Category:ヴァイオリン協奏曲|ふらあむす]]
[[Category:ブラームスの
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