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== 勢場ヶ原の戦い ==
大友軍は1,000騎を大村山上に、[[豊前国|豊前]]・[[豊後国|豊後]]を結ぶ道の立石峠に[[一萬田親実|木付親実]]([[木付鎮秀]]の祖父)と[[田北鑑生]]の1,000騎、地蔵峠に[[志手泰久]]と[[野原昌久]]の800騎を布陣した。また、本軍とは別に[[大神鎮氏]]と[[林鎮治]]の300騎も鹿鳴越に陣を構えた。
 
大内軍は間者を用いて大友軍の動きを調べ、動向を手の内にしたり、虚報を流して大友軍を翻弄したうえ、宇佐郡地頭の[[佐田氏]]の主、[[佐田朝泰]]の進言を容れ、佐田越えののち[[4月6日]]早朝、勢場ヶ原に抜け、大村山に籠もる大友軍の奇襲を図った。
 
「敵軍天より下れり」と仰天した大友軍は混乱。[[広瀬裕則]]が立石・地蔵の両峠を守る軍勢を急遽呼び戻し、[[坂落とし]]にて大内軍を蹴散らそうと提言した。しかし氏直は、敵軍は疲労しており、小勢でも勝利を得ることができると考え、何よりも敵の寄せるのを見ているのは卑怯であると主張し、この提言を却下。そして血気にはやり山を馳せ下り敵軍めがけて突進してしまう。これにやむなく大友軍が続いた。突撃した大友軍は親将が[[杉長門重信]](長門守)を一騎討ちで討ち取るなど<ref>[[田北鑑生]]が、後半戦で討ったともされる。</ref>、初期はよく戦ったが、数で勝る大内軍は[[鶴翼の陣]]に切り替え、前後左右から少数の大友軍を攻め、壮絶な死闘が展開された。先頭に立って陣頭指揮をとった氏直は、矢が馬に当たり転落し、徒歩で戦ったが、矢疵を受けて倒れた。さらに白兵戦にて大友主軍はほぼ壊滅、氏直を助けようとした寒田親将、広瀬裕則以下が戦死した。大内軍は凱歌を上げて一息入れた。
 
立石、地蔵峠に残っていた1,800の軍勢は「弔い合戦」と称し反撃。午前11時頃より各地で奇襲、急襲を繰り返した。彼らのほとんどが地元出身なこともあり、大内軍を翻弄した。緒戦の勝利に油断していた大内軍は対抗できず、すぐに崩れて大敗、大人数が討たれ、主将の陶興房も負傷した。逆転敗北となった大内軍は[[寄藻川]]沿いに豊後高田方面へと退却し、海路[[周防国|周防]]に撤退した。
 
結果的に大内軍が撤退し、戦略的には大友軍の勝利ということにはなったが、大友軍も二人の総大将を失い、本軍が崩れていたことから、戦術的には「引き分け」と分類される。
 
== 結果 ==
その後も二国間はまだ交戦していたが、[[天文 (元号)|天文]]7年([[1538年]])に室町幕府第12代将軍・[[足利義晴]]の仲介を受けて和睦し、結果、大内義隆による九州平定は頓挫した<ref>しかし、この年[[龍造寺家兼]]を少弐氏から寝返らせた大内氏は、豊前や筑前を中心にまだ北九州の覇権を握っていた。</ref>。そして、再び大友氏の台頭が本格化する。本合戦で敗れた陶興房は、その後も[[九州]]に派遣され、少弐氏や筑前の豪族らなどと戦うなど、義隆の信頼は失われなかった。