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'''波多 親'''(はた ちかし、生年不詳 - [[文禄]]3年([[1594年]]))は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の武将。[[肥前国]][[岸岳城]]城主。幼名・藤童(藤堂)丸。元服して、後の初名じめ「'''波多 '''(しげし)。別名に'''信時'''(のぶとき)。下野守、後に三河守。
 
== 生涯 ==
=== 家督相続 ===
[[波多氏]]の家系図には、かなり混乱があるので諸説あるが、一番有力な説としては、[[有馬義貞]]の三男。先代[[波多盛]](はた さこう)に嫡子がなかった事から、[[肥前有馬氏|有馬氏]]から波多氏に養子に入って家督を継ぐ。
 
この家督相続に当たって、藤童丸を擁立する盛の後室・真芳([[有馬晴純]]の子、或いは孫)の一派と、盛の弟・志摩守を担ごうとした一派との対立から御家騒動が起こり、真芳は志摩守擁立派の頭である[[日高資]](ひだか たすく)を毒殺するなど反対派を粛清している。その後、藤童丸は元服の際に[[大友義鎮]]から[[諱#偏諱授与]](「鎮」風習|諱字)を賜り]]、「'''波多下野守鎮'''」と称し家督を継ぐ。しかし[[永禄]]7年([[1564年]])、反対派の残党に祝賀の挨拶と称して居城へ入城された際に放火され、混乱に乗じて城を奪われ、一時は[[草野氏]]を頼って落ち延び、不遇の時代を送る。永禄12年([[1569年]])、[[龍造寺氏]]・有馬氏の後援を受けて岸岳城を奪回。反対派の残党は[[壱岐]]へ逃亡、[[松浦氏]]の支配下に入り防戦する。[[元亀]]2年([[1571年]])、[[対馬]][[宗氏]]の援軍を受けて壱岐へ攻め込むも、敵の偽りの内応に騙され敗北。
 
=== 龍造寺氏との和戦 ===