削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
3行目:
'''松浦 興信'''(まつら おきのぶ、<!--[[1488年]]([[長享]]2年)-->? -[[1541年]]([[天文 (元号)|天文]]10年))は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の大名。[[松浦氏]]の当主(第24代)。[[志佐純本]](峯昌、田平昌)の子で、[[松浦弘定]]の養子。[[志佐純次]]、[[深江純忠]]の兄。[[松浦隆信 (道可)|松浦隆信]]の父。[[平戸城]]主。肥前守。通称は源三郎。法名は高齢。
 
松浦氏には多くの一族があるが、興信はそのうち平戸松浦家の一門である。平戸松浦家は、松浦家の分家の一つにすぎなかったが、興信の曽祖父である[[松浦義]](まつら よし、平戸義)の時代に将軍[[足利義教]]の信任を受けて以来、本家(本家は下松浦党の祖である松浦直の長男御厨清の系譜にある相神浦松浦家)をしのぐ勢力を誇るようになっていった。興信の祖父である[[松浦豊久]](とよひさ)には六人の子があり、平戸松浦家の家督を次子の[[松浦弘定|弘定]](ひろさだ)に継がせ、長子の[[志佐純本|昌]](まさし)は[[峯氏|田平峯家]](田平氏)へ養子に出した。昌は後に田平氏を追われ、平戸松浦家の家督を巡り弟の弘定と対立したものの、近隣の[[志佐氏]]と敵対すると弘定と和解し、[[大内義興]]の援助を受け志佐氏を滅ぼし、自身が志佐の領主となり志佐純本(純元)を名乗った。弘定は和解の証として昌の実子である源三郎(興信)を後継としている。
 
松浦氏の嫡流筋である相神浦松浦家(宗家松浦氏)との関係は険悪であり、弘定はたびたびこれと争い、[[1498年]]、相神浦(現佐世保市)の竹辺城を攻め、[[松浦政 (相神浦松浦家)|松浦政]]を攻め滅ぼしたが、これに源三郎も参加していたという。