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== 生涯 ==
享保20年([[1735年]])2月25日、[[越前国|越前]][[丸岡藩]]第2代藩主・[[有馬一準|有馬一準(寿純)]]の次男として生まれる。初名、'''有馬 純峯'''(ありま すみみね)。母・演暢院が長州藩第3代藩主[[毛利綱広]]の外孫であったことから、先代藩主[[毛利宗広]]の遺言で、宗広の娘・誠姫の婿に迎えられ、藩主[[毛利重就]]の養嫡子と定められた。世子決定には、実子の文乃助([[毛利匡満|匡満]])を嫡子にしたい重就や[[毛利氏]]の男系子孫でない養子への一部家臣の反対もあったが、[[宍戸広周]]や[[毛利広漢]]ら一門により押し切られる形となった。これには6代[[毛利吉元|吉元]]以来、藩主が[[毛利輝元|輝元]]系から[[毛利秀元|秀元]]系に交代したことによる家中対立も影響している。
 
[[宝暦]]2年([[1752年]])5月27日、毛利家に養子入り。'''毛利 幸広'''(ゆきひろ)に改名し、宝暦3年([[1753年]])1月15日、従四位下・民部大輔に叙任。のちに第9代将軍[[徳川家重]]の[[偏諱]]を受け'''重広'''と名乗る。宝暦10年(1760年)6月19日に死去。享年26。その死に際しては、家中で重就正室・登代([[毛利治親]]生母)による毒殺の風聞が立った。
 
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