「順徳天皇」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
Strayed-vagrant (会話 | 投稿記録) m →略歴 |
編集の要約なし |
||
71行目:
== 略歴 ==
[[正治]]2年([[1200年]])4月に[[土御門天皇]]の皇太弟となり、[[承元]]4年([[1210年]])11月後鳥羽上皇の強い意向により、土御門天皇の[[譲位]]を受けて[[践祚]]。穏和な土御門とは対照的に激しい気性の持ち主だと言われていて、後鳥羽上皇から大きな期待を寄せられていたためである。
譲位した土御門上皇には権力は無く、後鳥羽上皇による[[院政]]が継続される。即位後の内裏は閑院であった。天皇の治世に関して、『[[増鏡]]』は「この御世には、いと掲焉なる事おほく、所々の[[行幸]]しげく、好ましきさまなり」と評しているが、このように世人の注目を引く華々しい行動が多かったのは、[[鎌倉幕府]]に対する皇権の示威行為の一端と考えられ、おそらく父上皇の意図によるところが大きい。
直接政務に与らない天皇は、王朝時代の[[有職故実]]研究に傾倒し、幕府に対抗して朝廷の威厳を示す目的もあって、『[[禁秘抄]]』を著した。これは天皇自身に関わる故実作法の希少な書物として、後世永く珍重された。また、父の影響で[[和歌]]や詩にも熱心で、[[藤原定家]]に師事して歌才を磨き、[[藤原俊成女]]や[[藤原為家]]とも親交があった。[[家集]]としては『順徳院御集』(紫禁和歌草)があり、歌論書には、当時の歌論を集大成した『[[八雲御抄]]』が知られる。『[[続後撰和歌集|続後撰集]]』以下の[[勅撰集]]には159首が入る。
98 ⟶ 100行目:
[[大阪府]]三島郡[[島本町]]の[[水無瀬神宮]]に祭神として祀られている。
== 脚注 ==
<references/>
== 関連項目 ==
* [[阿仏坊日得]]
|